玄宗
玄宗(在位:712年―756年、名は李隆基)は、中国の唐王朝第9代皇帝である。即位初期に宰相姚崇・宋璟を登用し、政治・財政・軍事・文化の諸制度を整えたことで「開元の治」と称される安定と繁栄を実現した。一方、統治後期には楊氏一族への偏倚、辺防の軍事化と節度使の増強、宦官の台頭などが複合して統治の弛緩を招き、755年に発した安史の乱によって王朝は深刻な打撃を受けた。文化面では音楽・舞踊・詩歌を庇護し、李白・杜甫らを輩出した長安文化の爛熟期を主導した点でも高く評価される。
出自と即位への道
玄宗は睿宗の第三子として生まれ、先帝中の政変と皇太子問題をめぐる権力抗争のなかで頭角を現した。先天の変を経て政治の実権を掌握し、712年に睿宗から禅譲を受けて即位した。即位直後、彼は姚崇・宋璟を相次いで宰相に任じ、冗費の削減、租庸調の整理、地方官の監察強化などを断行した。皇帝親政を旨としつつも、三省六部の分業を尊重し、初期には側近政治を抑制する姿勢を示した点が安定をもたらしたのである。
内政改革と「開元の治」
治世前半の玄宗は、制度の「運用改善」を重視した。科目制に基づく科挙の施行を引き締め、賄賂と縁故を禁圧して人材登用の公正を期した。均田制・租庸調の枠内で徴税と労役を再点検し、地方の中間搾取を抑止するための監察(御史台)や台閣の機能を活性化した。また、戸籍・里甲の再整備によって逃亡・浮浪の抑止を図り、中央の財政基盤を再建した。こうした地道な施策は都市長安・洛陽の商業活況を支え、国庫の安定と軍備の維持に寄与し、「開元の治」と総称される繁栄を招いた。
軍事と辺境統治:節度使の形成
北方・西域の情勢緊張に直面した玄宗は、辺境に鎮・節度使を置き、軍政・財政・司法を委ねる「総合権限」を付与した。突厥勢力の再編や吐蕃の伸張、西域における交通路の確保は緊急課題であり、迅速な現地判断を可能にするためであった。しかし、優れた軍人に藩鎮級の権限を集中させたことは、やがて地方権力の自立化を促し、王朝の統御力を損ねる副作用を生んだ。安禄山らの台頭は、まさに節度使制度の成功と危うさが交錯する地点にあったのである。
対外関係と国際環境
玄宗の対外政策は、西域交通の維持と北西辺の安定化を中核とした。トルコ系諸勢力の再編に対応する一方、チベット高原では吐蕃が強勢となり、青海・河湟や隴右方面で緊張が高まった。外交は冊封・互市・婚姻関係など柔軟な組み合わせで運用され、長安・洛陽はユーラシアの文物・宗教・商人が往来する国際都としての性格を強めた。朝貢交易と市場管理を統合する仕組みは、財政収入と文化交流の双方に資したが、辺境の軍事化と連動して財政負担の増大も招いた。
文化の爛熟:音楽・詩・都市文化
治世中期の玄宗は音楽・舞踊の愛好者としても知られ、宮廷に梨園を置き、伶官を養成した。宮廷文化の充実は都市文化の成熟を牽引し、長安には各地の楽舞・方術・宗教が流入した。詩壇では李白が奔放な想像力で時代精神を体現し、杜甫は現実の矛盾と苦難を抉り出した。こうした二大詩人の活動は、国家の栄光と翳りをともに映し出し、文化の高揚が政治的均衡の上に成り立っていたことを示している。後宮では楊貴妃が寵愛を受け、文芸や装束・化粧の流行にも影響を与えた。
安史の乱と退位
天宝年間に入ると、宦官の政治介入、外戚の伸長、そして節度使の専横が複合して政治は次第に弛緩した。755年、安禄山・史思明が反乱を起こすと、唐軍は相次いで敗退し、756年に玄宗は長安を離れて蜀へ避難した。馬嵬坡では楊国忠が誅され、楊貴妃も死を賜って軍心を安んじたと伝える。まもなく粛宗(李亨)が即位し、玄宗は太上皇となった。乱の収拾は長期化し、王朝は以後、藩鎮の自立と財政の逼迫に悩まされることになる。
歴史的意義と評価
玄宗の前半期は、清明な用人と制度運用の巧みさによって王朝の最盛期を画した。他方、後半期は、個人寵愛・側近政治・軍事分権の拡大が臨界点を超え、国家統合を損なった典型例としてしばしば論じられる。彼の治世は「制度の設計」よりも「運用の張力」によって繁栄と危機が振幅することを示し、帝王の美学と統治の規律が拮抗する唐王朝のダイナミズムを体現したのである。詩歌・音楽の庇護者としての光彩と、安史の乱に象徴される統御喪失の陰影——この二面性こそが、後世における評価を複雑にしている。
補足:年号「開元」と「天宝」
治世前半の繁栄は「開元」、後半の変調は「天宝」と年号で呼び分けられることが多い。年号自体が政治気候の象徴語として流通し、開元期の制度整備と天宝期の宮廷・軍政の緩みという対照は、唐史叙述における基本的な枠組みとなっている。こうした時代認識は、制度・人事・軍事・財政・文化の連関を立体的に理解する上で有用である。