永嘉の乱
永嘉の乱は、西晋末の永嘉年間(307-313)に勃発し、311年(永嘉5)に匈奴系の漢(前趙)が洛陽を陥落させて晋の懐帝を捕縛、続く316年に長安も失陥して西晋が滅亡へ至った一連の動乱である。直前の内乱である八王の乱により中枢と軍制が疲弊したところへ、北方諸民族(匈奴・羯・鮮卑・氐・羌)が台頭し、華北の政治秩序と人口・経済基盤が急速に崩壊した。本乱は南方への衣冠南渡を促し、江南の建康を都とする東晋体制の成立と、華北での群雄割拠(いわゆる五胡十六国時代)を導く転換点となった。
背景
西晋は西晋初代の統一(280)で三国分裂を収めたが、功臣と皇族の利害対立が激化して八王の乱(291-306)が長期化した。州郡の軍事力は割拠化し、辺境防衛を担った胡族傭兵の統制も緩んだ。加えて飢饉や課税負担の偏在が移民と離散を加速し、北方の防衛線は脆弱となった。この構造的疲弊の上に、匈奴系の劉淵が漢(前趙)を掲げて挙兵し、華北の要地へ圧力を強めたのである。
経過
304年、劉淵は平陽で建国を宣言、軍を拡大した。310年に劉淵が没すると劉聰が継ぎ、311年(永嘉5)に洛陽へ総攻撃を敢行、都城は陥落し懐帝が捕らえられた。これが狭義の永嘉の乱の中心事件であり、宮闕と史料・人口は甚大な損害を受けた。晋の残存政権は長安で抵抗したが、316年に劉曜(劉淵の甥)がこれを攻略し、帝位を奉じた愍帝は降伏して処刑された。ここに西晋は滅亡し、翌317年、江南で司馬睿が建康に即位して東晋が成立した。
政治・社会の変容
永嘉の乱は、北方の戸口を激減させ、荘園化と門閥貴族の再編を促した。中原の士族や工人・商人は大挙して長江以南へ移住し(衣冠南渡)、江南の開発が飛躍的に進んだ。一方、華北では胡族勢力が政権を分立させ、征服王朝間の戦争と流通断絶が繰り返された。国家の徴発能力は低下し、在地豪族の軍事・課税権が相対的に強まったことは、東晋の政治文化と人事秩序(九品中正制の運用や清談風潮)にも影響を残した。
地域別の動向
華北では洛陽・邯鄲・并州などの都市が荒廃し、生産と市易は断続的に停滞した。河西・関中をめぐる争奪は、長安の再建を困難にし、遊牧・半農遊牧の軍事力が優勢を保った。対照的に江南では、会稽・建康周辺で灌漑や屯田が進み、租税基盤が再構築された。これにより、東晋は北伐の試みを繰り返しつつも、基本的には長江防衛を軸とする南北対峙へ移行したのである。
文化・宗教の影響
永嘉の乱後の社会不安は、仏教受容を加速させた。北では胡漢混淆の宗教空間が形成され、僧尼や訳経僧の活動が諸政権の庇護と結び付いた。南では難民系士族のネットワークを通じて、清談文化と仏教思想が交差し、建康は新たな学芸の中心地となった。写本・金石の散佚は痛手であったが、その再収集と編纂は後代の史書編成(「晋書」など)に影響を与えた。
要因の整理
- 内的要因:八王の乱に伴う軍政の瓦解、宦官・外戚と宗室の対立、課税と兵站の破綻。
- 外的要因:匈奴・鮮卑・羯・氐・羌など北方・西方諸族の動員力拡大と連合戦術、辺境防衛線の崩落。
- 構造的要因:人口移動と耕地荒廃、交易路の遮断、在地豪族・門閥の自立化。
年表(抄)
- 291-306:八王の乱。
- 304:劉淵、平陽で「漢(前趙)」を称す。
- 311:洛陽陥落、懐帝被擒(永嘉の乱の核心)。洛陽の焼亡と人口散逸。
- 316:長安陥落、愍帝降伏。西晋滅亡。
- 317:司馬睿が建康で即位し、東晋成立。
用語と年号
「永嘉の乱」の名称は懐帝の年号「永嘉」に由来する。史料上、311年の洛陽喪亡を指して「永嘉之乱」「永嘉之禍」とも称されるが、広義には311-316年の連続的崩壊過程全体を含む。関連地名として、都城の洛陽・長安、避難・再建の拠点である建康が重要である。
史料と評価
本乱の理解には「晋書」「資治通鑑」ほか出土文書・金石資料の照合が要る。従来は胡漢対立の図式で語られがちであったが、今日では内戦後の国家能力低下、移民・市場・環境の相互作用、さらには多民族統合の失敗と再編を視野に入れる分析が主流である。すなわち、永嘉の乱は単なる「外圧」ではなく、内政と周辺世界の連動が帝国秩序を転換させた事件として評価される。