長安|漢唐の都、シルクロードの中枢

長安

長安は古代中国における最重要の都城であり、前漢・隋・唐の王朝がここを首都として営み、東西交通と政治文化の中心として機能した都市である。渭水流域の関中平野に位置し、険阻な函谷関・潼関に守られた地勢は、外敵に対する防衛と国内支配の安定に資した。前漢では未央宮を中心に皇帝権力が展開し、唐代には太極宮・大明宮が権威の象徴となった。巨大な坊郭制と整然たる条坊、そして東市・西市の二大市場は、国際都市としての面貌を明確に示し、シルクロードの東端に立つ門戸として多様な人・物・思想が往来したのである。ここでいう長安は単なる地名ではなく、統合された帝国秩序とコスモポリタンな文明の象徴といえる。

地理と立地

長安は渭水北岸の台地に築かれ、周囲を秦嶺・隴山などの山地が囲む。天然の要害と肥沃な関中の生産力が合致し、軍事・物流・税収の各面で持続的な首都経営を可能にした。洛陽に比べて外敵に対する防御力が高く、西域への玄関口としても有利であった。

前漢の都・未央宮

劉邦の建てた漢帝国は、秦の咸陽近傍に新都を築き、宮殿の中心として未央宮を整備した。宮城・外郭・市の配置は巨大で、官僚制と兵站の中枢が集積した。武帝期には対匈奴政策や西域経営が進み、宮殿と官署群は膨張し、儀礼空間は帝国意識を具現化した。

隋の大興城と唐の継承

隋は都城を再編して大興城を築造し、唐はこれを継承して長安と称した。計画的な条坊制は碁盤目状に展開し、朱雀大路が南北を貫いた。宮城は北に置かれ、南の外郭に市と坊を配置することで、政治と日常生活を機能的に分離した。

都市計画と坊郭制

唐代長安は、城壁で囲まれた外郭の内部を多数の坊(居住区)と市(商業区)に分割し、夜間鎖坊によって治安と防災を確保した。街路は広幅員で風通しがよく、官営の水路・排水設備も整った。こうした制度化された区画は、人口集積と異文化共存を両立させる基盤となった。

東西市と国際交易

東市・西市には中央アジア・西アジア・南アジアからの商人が集まり、香料・ガラス・織物・金属器・薬物が取引された。度量衡や価格統制、物価監視が行われ、交易は国家の監督下に置かれた。貨幣流通だけでなく物々交換も併存し、金融仲介や手形に類する慣行もみられた。

多宗教・多文化

長安は仏教の大伽藍が林立し、玄奘訳経などの事業が展開した。他方でゾロアスター教・マニ教・景教(ネストリウス派)も受容され、祠堂・礼拝堂が各坊に点在した。宗教的多様性は商業活動と連動し、祭礼・音楽・舞踊は宮廷から市井へと広がった。

政治中枢と宮城

唐代の太極宮は王朝初期の政務の場であり、のちに大明宮が実質的な政治中枢となった。中書・門下・尚書を中心とする三省六部制が運用され、詔勅の起草・審査・執行が能率化された。宮城の儀礼空間は天下秩序を可視化し、科挙による官人登用は都市に才学を吸引した。

事件と動揺

安史の乱では皇帝が一時的に退避し、都市は兵乱に曝された。戦乱と財政難は坊郭の荒廃を招き、交易ネットワークも寸断された。とはいえ長安はなお文化の焦点であり、詩人や僧侶、技術者が往来し、しばしば復興事業が試みられた。

都市の生活世界

  • 坊ごとの自治と里正の統率、夜間の門限・防火体制
  • 市場の行商・座売、官の検察、物価と品質の監督
  • 科挙受験生の書肆通い、寺院での講経と学芸の交流
  • 外国人居留地の言語・衣装・食文化の混在

考古学と遺跡

現在の西安一帯に未央宮跡・大明宮跡・城壁線が分布し、発掘によって宮殿区画や道路・水利の痕跡が確認されている。瓦当・銘文・木簡・陶器などの実物資料は、制度化された都市工学と官僚制の具体像を伝える。

シルクロードの起点として

長安は陸路と河川交通を束ねる節点であり、外交使節や留学生、巡礼僧がここから西へ向かった。交易路の情報は詩文・碑刻・地理書に反映され、世界観を拡張した。

都市の終焉と継承

王朝交替と戦乱により、計画都市としての機能は次第に衰退したが、都城計画や行政組織の理念は後世の首都建設に継承された。城郭と条坊、儀礼軸線という原理は、東アジアの都城論の参照枠となり続けたのである。