東晋
東晋は西晋崩壊後の南方で再建された晋王朝で、年号は317〜420に及ぶ。永嘉の乱により華北の統治が崩れ、北方に五胡十六国が分立するなか、王族の司馬睿が建康(現在の南京)で即位して正統を継承した。政権は江南の門閥貴族を基盤とし、衣冠南渡によって流入した北方の士族が在地勢力と結びつき、南朝成立の先駆をなした。桓温・謝安らの名臣が台頭し、383年の淝水の戦いで南朝の自立を確立したが、軍事権の伸張は政治の不安定さも招き、やがて劉裕の簒奪によって劉宋へと交替した。
北に対しては奪還構想を保ちつつ、南では江南開発と海上交通の活性化が進み、文学・書道・仏教が栄えた点に特色がある。
成立の背景
西晋は司馬炎が魏から禅譲を受けて成立したが、のちに八王の乱で中枢が動揺し、311年の洛陽陥落・316年の長安陥落を経て華北の統治が崩壊した(永嘉の乱)。王侯・士族・技術者・工人が大量に長江以南へと避難する「衣冠南渡」が起こり、この人材・技術・書籍・制度資源の移動が江南社会の飛躍的発展を促した。こうした危機の中で、琅邪王司馬睿が建康を拠点に朝廷を再建し、317年に即位して東晋を称した。建国期を支えたのは王導ら江左の名族であり、彼らは儀礼と制度を整え、北方からの移住者を受け入れながら新たな官僚秩序を築いた。
西晋から東晋へ
西晋から東晋への連続性は法制・礼制・官名の継受に見られ、九品中正制は形を変えつつ存続した。他方、政治の重心は洛陽・長安から建康へと移り、南北二重世界の端緒が開かれた。時代の骨格を理解するには、西晋・永嘉の乱・衣冠南渡の三点を相互に関連づけて捉える必要がある。
政権構造と政治運営
東晋の政治は門閥貴族制が特色で、王・謝・桓・庾などの大族が中枢を担った。朝廷は皇帝権と有力氏族・将軍勢力の均衡で辛うじて保たれ、時に外戚・宦官・将軍が主導権を争った。桓温は北伐を繰り返して名望を高め、のちに桓玄が簒奪を試みるなど、軍閥化の兆しは常に政局を脅かした。とはいえ、官僚制そのものは整備され、儀礼や法令の整序、租税・戸籍法の運用が継続された。
主要皇帝と転機
- 元帝(司馬睿):建国の皇帝。王導を重用し、江南統治の枠組みを整えた。
- 成帝・康帝・穆帝:幼主が続き、摂政体制の下で門閥の影響が強まった。
- 孝武帝:政務刷新を試み、文化の隆盛を後押しした。
- 安帝・恭帝:内訌を抑えきれず、軍人劉裕の台頭を許した。
江南社会と経済の展開
衣冠南渡による人口・技術の移入は、江南の農業生産と都市の成長を加速させた。呉越・江東の低湿地では灌漑・治水が進み、水稲の集約化が進展した。建康・会稽・丹陽などの都市は政治・手工業・交易の中心となり、荘園経営や僑郡僑県といった特有の行政・土地制度が広がる。海上・河川交通の発達により、南シナ海・東シナ海を通じた交易も活発化し、塩・絹・陶磁・紙・書籍などの流通が拡大した。
門閥と在地勢力
王謝などの大族は学問・人脈・財力で朝廷を支えたが、一方で在地豪族や移住士族との利害調整が不可欠であった。官途への登用は家格に左右されやすく、寒門の進出は限定的で、これが政治の停滞を招く要因ともなった。それでも東晋は制度の柔軟な運用で統治を持続し、南朝の基盤を築いた。
北方情勢と対外関係
華北では後趙・前秦などが興亡を繰り返し、対外政策は「防衛の持久」と「機会の北伐」を併用する現実主義に傾いた。383年、前秦苻堅の大軍が南下したが、謝安・謝玄らの采配により淝水の戦いで撃退し、長江防衛線の堅固さと江南の自立を内外に示した。以後も北方の再統一は果たせなかったが、外交・交易・亡命者受け入れを通じて人的・物的交流は続いた。
軍制と防衛線
長江・淮河の水系は天然の要害であり、水軍と城柵網の整備が肝要であった。諸州に配置された軍鎮は地方統治と防衛を兼ね、時に将軍の自立を生むが、同時に辺境の安定にも寄与した。桓温・劉裕らの武断政治は賛否を呼んだものの、結果として政権維持の柱となった。
文化・学術・宗教
東晋期は文化の成熟が顕著で、書では王羲之・王献之が典範を確立し、文学では山水詩の萌芽や清談文化が広まった。仏教は江南で受容が進み、僧侶の著述・訳経・結社活動が活発化した。廬山の慧遠は浄土思想の端緒を開き、貴族の信仰と社会事業が連動して寺院経済も形成された。学術面では経書訓詁や史書編纂が進み、北方からもたらされた典籍・学匠が江南知の厚みを増した。
都市建康と空間構造
建康は政治中枢であると同時に、多民族・多地域の人々が交差する学術都市でもあった。官衙・市舶・寺院・私邸が密に配置され、南北交易の終点として物資と情報が集積した。都城の繁栄は文化創造の装置となり、後続の南朝諸王朝にも継承された。
滅亡と歴史的意義
5世紀初、劉裕が軍権と政治を掌握し、北伐で声望を高めたのち、420年に恭帝から禅譲を受け劉宋を開いた。ここに東晋は終焉するが、南北の分裂状況下で正統の継承を掲げ、江南を統治可能な制度・経済・文化の基盤を築いた意義は大きい。西晋の失敗を踏まえつつ、南朝の秩序と美学を育んだ点で、以後の中国史の南北二元構造を理解する鍵となる王朝である。
関連項目
本記事と関連の深い項目として、晋、西晋、永嘉の乱、八王の乱、司馬炎、司馬睿、三国期の拠点である成都などを参照されたい。これらの理解は東晋の成立条件・人的基盤・文化的継承を把握する助けとなる。