晋|三国統一から南北時代の幕開け

中国史における「」は、司馬氏が建てた西晋(265–316)と東晋(317–420)の二つの時期を指す。魏の実権を掌握した司馬炎が禅譲を受けて即位し、280年に呉を滅ぼして一時的な再統一を達成したが、内乱と北方勢力の圧力で西晋は短命に終わった。続く東晋は長江以南を基盤に建康(のちの南京)に都を置き、北方からの流民を受け入れて江南社会の発展を促した。国号「」は春秋時代の諸侯国「晋」とも重なるが、通常は前者を「西晋・東晋」、後者を「春秋の晋国」と呼び分ける。

成立と系譜

司馬懿・司馬昭の権力継承を背景に、司馬炎(武帝)が魏から禅譲を受けて西晋を建てた。魏の建国者曹丕(魏文帝)以来の体制と制度を継承しつつ、形式上は漢以来の皇帝統治を再興した点に特徴がある。統一の達成は、三国の長期的抗争を終わらせる一方、戦後処理と広域統治の難題を一挙に引き受けることを意味した。

西晋の政治構造と社会

西晋は魏以来の九品中正制を引き継ぎ、上層門閥が官途を独占する体制が強まった。中央では尚書省・中書省・門下省の枢要機関が機能し、地方では州・郡・県を基盤に統治をすすめた。戦乱期に拡大した屯田制は一部で継続され、復員や辺境経営に用いられたが、土地と戸籍の固定化は十分に進まず、豪族的な大土地所有と在地支配が拡大した。

八王の乱

290年代末から306年頃にかけて勃発した八王の乱は、皇族(王)同士の相剋と門閥・軍閥の動員が連鎖して政権を麻痺させた内戦である。皇太子擁立をめぐる政争、宦官・外戚・門閥の利害衝突、財政・軍糧の逼迫が重なり、地方軍閥の自立と辺境防衛の弛緩を招いた。内乱は北方諸勢力の侵入を許す最大の契機となり、西晋の統治基盤を根底から崩した。

永嘉の乱と西晋の崩壊

311年の洛陽陥落(永嘉の乱)と316年の長安陥落により、西晋の皇統は瓦解した。北中国では五胡を中心とする諸政権が割拠し、王朝中枢と士民は江南へ移住する。これにより北中国の政治・軍事の主導権は失われたが、逆に江南では文化的活力と経済開発が進み、後の南朝繁栄の前提が整えられた。

東晋の樹立と江南秩序

317年、司馬睿が建業(のちの建康)で即位し東晋が成立した。東晋は北方流民と在地豪族の協調を図り、軍事権を持つ将軍・刺史に在地基盤を与えることで防衛と統治を両立させた。王導・謝安ら名門の政治主導、荊揚地域の物資動員、会稽・丹陽の経済力が政権を支え、対北方政権との折衝と選択的な北伐を繰り返した。

北方諸政権との関係と戦争

東晋は十六国諸政権と対峙しつつ、国境の流動線を意識した防衛戦略を採った。383年の淝水の戦いでは前秦の南進を撃退し、長江防衛の堅牢性を示した。以後も割拠勢力の興亡に応じて外交・軍事の組み合わせを変え、江北の一時的な回復や要衝の保持を図ったが、全域回復には至らず、最終的には劉裕の台頭が王朝交替の道を開く。

経済・社会・文化

東晋期の江南は、移住者の技術・人脈と在地の水田稲作・水運が融合して生産性が上がった。塩・鉄・絹・陶の地域特化と大土地所有(田荘)の拡大が同時進行し、豪族的ネットワークが徴税・治安・物資輸送を担った。思想面では老荘思想を基盤とする玄学が流行し、清談文化や王羲之に代表される書法の洗練、山水志向の文芸が花開いた。こうした文化的気風は、統治の不安定さと裏腹に士大夫社会の自己規範を支えた。

三国から晋への連続と断絶

三国鼎立の帰結としての「統一」は、資源と人材の再配置を強制した点で画期的であった。とりわけ蜀漢(劉備・関羽張飛諸葛孔明)の拠点である成都と長江水運圏の統合は、のちの江南主導の経済圏形成につながる。他方で、統一に先立つ赤壁の戦い以後に確立した地域ブロック化は、西晋政権の短命化と地方自立を促し、名実の「天下一統」と現実の多極化の乖離を拡大させた。

春秋の晋国との区別

春秋の晋国は宗法的秩序と大貴族の連合によって台頭し、前403年には韓・趙・魏の「三晋」へ分裂した。これに対し、西晋・東晋の「」は皇帝制と九品中正制のもとで門閥貴族が国家機構を担う。両者の共通点は「覇権と分裂の循環」にあるが、制度・地理・経済構造は大きく異なるため、文脈上の区別が不可欠である。

用語・年表・史料

  • 用語:「西晋」「東晋」「江左」「北伐」など。国号は簡牘・碑誌では「晉」表記。
  • 主要年表:265(建国)/280(呉滅亡・統一)/291–306(八王の乱)/311・316(洛陽・長安陥落)/317(東晋建国)/383(淝水の戦い)。
  • 基礎史料:『晋書』『資治通鑑』、魏・呉・蜀の事跡は陳寿『三国志』に拠る。
  • 地理:長江・淮河の水運網と会稽・丹陽・荊揚の物資動員が東晋を支えた。
  • 制度:九品中正制の下で門第が昇進を規定し、郷里に根差す豪族が徴発・治安を担った。