北斉
北斉は、中国の南北朝時代に華北を支配した王朝で、550年に高洋(文宣帝)が東魏から禅譲を受けて建国し、577年に北周に滅ぼされるまで存続した政権である。都は邺(現在の河北省邯郸市臨漳付近)に置かれ、山東・河北・河南・山西の要地を掌握した。建国の基盤には高歓・高澄の軍事的遺産と東魏の行政機構があり、成立当初は迅速な集権化と軍政の引き締めが進んだ。他方で、文宣帝以後は酒色と苛烈な刑罰、寵臣政治が目立ち、政治倫理の弛緩が加速し、対外的には北周・突厥の圧迫を受けて崩壊へ向かった。
成立と系譜
北斉は高氏政権である東魏を継承し、文宣帝(高洋)が即位して王朝化した。高氏の淵源は北魏政権下で台頭した軍閥高歓にさかのぼり、兄の高澄が暗殺された後、高洋が主導権を握って東魏の実権を掌握、最終的に禅譲を受けて皇帝となった。文宣帝の死後、短命の皇帝が続き、やがて武成帝(高湛)・後主(高緯)の時代に権臣や外廷勢力が横行して国家基盤が脆弱化した。系譜的には東魏の直接後継で、対外的には北周との覇権競合が宿命であった。
政治構造と官制
北斉は東魏の官僚制を継ぎ、尚書省・門下省・中書省の三省体制的機能を運用しつつ、州郡の監督を強化した。貴族層・軍功階層の登用が進む一方、文宣帝以降は寵臣の和士開らが政務を壟断し、綱紀が乱れた。戸籍・田地管理では均田制の継続と再整備が図られ、寨・堡の配置や里甲的組織を通じて軍糧・兵役の動員効率を高めた。また北方出自の武断を抑え、漢地の慣習・儀礼を取り込む漢化政策が進展した。
軍事と対外関係
北斉は黄河中流から太行・燕山にかけての防衛線を整備し、対北周戦で関隴勢力と衝突した。建国初期は攻勢に出る場面もあったが、中期以降は将帥の分裂と軍規弛緩が深刻化し、戦略的主導権を失った。突厥の台頭は華北勢力の均衡を変え、北周が突厥と結ぶことで北斉は外交的に孤立した。最終局面では并州・汾水流域の要衝を喪失し、邺都防衛も崩れて瓦解に至った。
経済・社会
北斉期の華北は黄河・海河水系の穀倉地帯を背景に生産が維持され、均田と租庸調的負担で財政基盤を確保した。市舶・内陸交易では邺を中心に手工業・塩鉄流通が活発化し、官営工房が武具・繊維・陶を供給した。里単位の把握を強めるため、里・隣・保を束ねる三長制的な住民統制が継受され、徴発・治安・訓練の効率化に寄与した。華北移民・流民の再編も進み、兵農分離と兵戸管理が制度化した。
文化と宗教
北斉は仏教保護で知られ、邺都周辺の響堂山石窟などに当時の美術水準を示す造像が残る。宮廷文化では胡風と漢儀が交錯し、音楽・舞踏・服制に多元性が現れた。文宣帝の時期には刑罰の峻厳さと享楽性が同居し、後代の史書は「暴戻」と評するが、石刻・墓葬出土品は洗練された工芸技術を物語る。書記行政の進展とともに公文書・律令編纂が整い、東魏以来の法制伝統を更新した点も北斉の特徴である。
衰退と滅亡
北斉の崩壊要因は、第一に宮廷の私的権力化であり、後主高緯期の寵臣政治・外戚干政が軍政を麻痺させた。第二に軍事的劣勢で、并州方面の失陥と名将の欠乏が致命傷となった。第三に財政・徴発の過重で民心が離反し、農戦両用体制の弾力性を失った。577年、北周武帝の大挙侵攻に抗しきれず、邺が陥落して北斉は終焉した。その後、華北は北周を経て隋の再統一へ向かう。
主要な皇帝
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文宣帝(高洋、550–559年):北斉建国者。軍政強化と同時に苛烈。
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孝昭帝(高演、560–561年):短期の改革志向。
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武成帝(高湛、561–565年):奢侈傾向が強まり綱紀弛緩。
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後主(高緯、565–577年):寵臣和士開らの専横で国勢衰退、北斉滅亡へ。
東魏・西魏との関係
北斉は制度面で東魏の延長にあり、対抗政権の西魏から継承された関隴勢力がのちの北周を形成したため、華北は二極構造に分断された。東西の対立は軍事境界線の固定化と局地戦の反復を招き、経済資源を消耗させた。最終的に関隴ブロックが組織的一体性を保ったのに対し、邺都政権は派閥抗争で弱体化し、均衡が崩れて滅亡に至った。