西魏
西魏(535-557)は、北魏末の動乱と権臣対立の帰結として成立した北朝の一国である。実権は関中に拠る宇文泰が掌握し、都は長安に置かれた。名目上の皇統は北魏拓跋系を継承するが、政軍の中枢は関隴の豪族・武人層が担い、後の北周・隋唐体制へ連続する制度改革が進められた。対外的には黄河中流域で東魏と激戦を繰り広げ、柔然・吐谷渾にも備えつつ、関中・隴右の地盤を再編した点に特色がある。こうした改革と軍制の整備は、北周の建国と帝国再統一の礎を築いた。
成立の背景
北魏末には六鎮の乱や爾朱氏専横が続発し、政権は動揺した。高歓の勢力伸長に脅威を感じた孝武帝は534年に関中へ逃れ、宇文泰に依拠して体制立て直しを図る。やがて孝武帝は内紛の渦中で失われ、宇文泰は拓跋系の元宝炬(文帝)を擁立して535年に西魏を樹立した。これにより黄河以東は高歓が擁立した東魏が、以西は関中の西魏が分治する構図となり、旧北魏の分裂は決定的となった。
政治体制と改革
宇文泰は官僚制と軍制を同時に再編した。とくに関隴の武人・豪族を基盤に、軍戸と農戸を編成し直して戦時動員と生産を両立させた点が重要である。吏治粛正・節倹・刑政の明確化を掲げ、門第よりも才徳を重視する人材登用を進めた。北魏以来の均田・戸籍・郷里組織を実情に合わせて調整し、関中の租税・兵役の再築に成功した。主な施策は次のとおりである。
軍事と対外関係
西魏は黄河・渭水流域で東魏軍と衝突した。537年の沙苑の戦いでは宇文泰が奇兵運用で高歓軍を破り、538年の玉璧攻防では機動防御で関中の戦略的主導を維持した。対北方では柔然の動静に警戒し、西方では吐谷渾・河西各勢力との緩衝関係を調整した。編制上は騎兵運用と歩兵の連携を重んじ、関中の糧道と河西連絡線の確保を最優先課題として戦略設計が行われた。
社会・経済と文化
関中は渭水盆地の潅漑に支えられ、屯田・課田の再編で生産が回復した。租調・徭役の標準化は戸口把握と直結し、郷里組織の再建により治安と徴発が安定した。文化面では、北方鮮卑系の伝統と漢地文化が融合し、胡漢折衷の宮廷儀礼・服制が整えられた。長安周辺では仏教寺院の修造も進み、関隴の名族が学芸を後援した。制度と文化の混淆は、のちの北周・隋唐の都城文化へと受け継がれる。
主要人物
宇文泰は西魏の実質的主導者であり、政軍改革を断行して関中の復興を成し遂げた。文帝(元宝炬、在位535-551)は名目的君主として国家の正統を担保し、続く廃帝・恭帝の時代には宇文氏政権の枠組みが固まる。将帥では李弼・独孤信・于謹らが知られ、とくに于謹は荊州・江陵攻略で大きな戦果を挙げた。こうした人材群は北周の建国後も中枢を担い、隋唐の名門層へ連なる家系も多い。
対南朝・江陵攻略
南朝梁が内訌に揺れると、西魏は于謹を主将として554年に江陵を攻略し、梁の元帝を失わせた。これにより長江上流域に影響力を及ぼし、西梁を樹立して関中政権の南面戦略を補完した。関中の糧道延伸と長江流域の交易は、国家財政に新たな余力をもたらし、対東魏・北斉への抑止効果も発揮した。
北周への継承
宇文泰の薨去後、政権運営は宇文護が主導し、恭帝期に体制転換が進む。557年、宇文覚が帝位に就いて北周が建国され、形式上西魏は幕を閉じた。しかし、関隴集団の軍事・官僚ネットワーク、郷里編成、軍戸の運用、節倹と実務を重視する統治理念は北周に継承され、やがて隋唐の中央集権体制・均田戸籍・兵制の枠組みに結晶する。制度史上、魏晋南北朝を貫く大転換点に位置づけられる。
基礎データ(概観)
- 時代区分:北朝(535-557)
- 都城:長安(関中)
- 実権者:宇文泰(関隴集団の領袖)
- 皇統:拓跋(元)氏系の継承
- 制度:郷里編成の再整備、兵農一体の運用、北魏制度の継承的改編
年表(簡略)
- 534年 孝武帝、関中へ移動し宇文泰に依拠
- 535年 西魏建国、元宝炬(文帝)即位
- 537年 沙苑の戦いで高歓軍を撃破
- 538年 玉璧攻防、関中の防衛に成功
- 551年 文帝崩御、体制再編へ
- 554年 于謹、江陵を攻略し南朝梁を動揺させる
- 557年 北周建国、西魏終焉