保安委員会|恐怖政治支えた警察機関

保安委員会

フランス革命期の保安委員会(仏: Comité de sûreté générale)は、革命政府のもとで治安・警察・予審などを担当した常設委員会である。フランス革命が急進化し、内外からの脅威が高まるなかで、反革命勢力の監視や逮捕、裁判への付託を一手に担い、「革命の警察機関」として機能した。しばしば強大な権限を有した公安委員会と並ぶ中枢機関として恐怖政治を支えたが、両者は協力しつつも次第に対立を深めたとされる。

設置の背景と成立

保安委員会は、王政崩壊後の治安悪化と反革命の拡大に対応するために設置された。王権停止後、立法議会に代わって招集された国民公会は、内乱や亡命貴族との連携を警戒し、中央政府レベルで警察・監視を統括する組織を必要としていた。こうして政治犯の捜査や逮捕命令の発出、秘密警察の統括などを任務とする委員会として保安委員会が整備され、各地の監視委員会やセクションと連携しながら、反革命とみなされた人物を中心に調査・拘束を進めたのである。

役割と権限

保安委員会の職務は、一般的な行政警察をこえる広い範囲に及んだとされる。とくに恐怖政治期には次のような権限を行使した。

  • 反革命容疑者の逮捕命令や家宅捜索の発令
  • 各地の監視委員会・革命委員会から送られてくる報告書の審査
  • 容疑者を革命裁判所に付託するかどうかの決定
  • パスポートや身分証明書の発行・管理を通じた市民の移動監視
  • スパイ・密告網の統括と情報収集

このように保安委員会は、捜査・逮捕・送致を一連の流れとして統括する組織であり、司法と行政の境界を曖昧にしながら、革命政府の安全保障を担う存在であった。

公安委員会との関係

革命政府の二大委員会とされる保安委員会公安委員会は、役割分担と権限の重複を併せ持っていた。一般に公安委員会が戦争指導や外交・立法の監督など「国家の救済」に関わる大方針を決めたのに対し、保安委員会は主として内務・警察・監視を通じてその方針を具体的に遂行したと理解される。ただし現実には、どちらが容疑者の拘束や釈放を決めるか、どこまで捜査に介入できるかをめぐって対立する場面も多く、委員間の派閥争いと結びついて政治的緊張を高めていった。

恐怖政治と保安委員会

1793年にジャコバン派が政権を掌握し、いわゆる恐怖政治が開始されると、保安委員会の役割はいっそう拡大した。革命裁判所に送致される事件数は急増し、その前段階を担う委員会として、容疑者名簿の作成や尋問記録の整理、情状の評価などに深く関わったからである。とくにロベスピエール派に批判的な委員が多かったとされる保安委員会は、しばしば政治的敵対者の情報を握り、政争の一翼を担った。こうした性格から、「ジャコバン独裁」を支えると同時に、その内部矛盾を増幅させる装置ともなったのである。

構成と委員たち

保安委員会は複数の議員から構成され、しばしば弁護士や地方行政の経験者など、法務・警察に通じた人物が多く選ばれたとされる。委員の中には、公安委員会やジャコバン派と協調する者だけでなく、それらを批判し勢力均衡を図ろうとする者もいた。たとえば、公安委員会の中心人物であるロベスピエールに距離を置く委員は、情報の扱いを通じて彼の影響力を制御しようとし、そのことが1794年の政変へとつながったと解釈されることもある。

テルミドールの反動と衰退

1794年7月の「9日テルミドール」における政変、すなわちテルミドールの反動においては、保安委員会の一部委員がロベスピエール打倒に関与したとされる。公安委員会と保安委員会の対立は頂点に達し、その帰結として恐怖政治を主導した指導者層が処刑された後、両委員会の権限は大幅に縮小された。とりわけ政治犯の大量逮捕や迅速な裁判を進めた仕組みは批判の的となり、委員会制度そのものが見直されていった。

廃止と歴史的意義

1795年に総裁政府を定める新憲法が施行されると、非常時体制を象徴する保安委員会は段階的に廃止された。とはいえ、その経験は後世の警察制度や国家安全保障機構の形成に大きな影響を残したと考えられる。中央集権的に情報を集約し、容疑者を一元的に管理する仕組みは、近代国家における治安維持のモデルの一つとなったからである。フランス革命の文脈では、保安委員会は自由と安全の緊張関係を象徴する存在であり、革命が自ら掲げた人権と法の支配の理念をどこまで守りえたのか、検証する際の重要な手がかりとなっている。