ロベスピエール
ロベスピエールは、フランス革命期における急進共和派の指導者であり、「恐怖政治」の象徴的存在として知られる政治家である。弁護士出身の彼は道徳性と平等を重んじ、「非腐敗なる者」と呼ばれるほど清廉な人物と評価されたが、その理想主義はやがて大量処刑をともなう独裁的統治へと結びつき、テルミドールのクーデタによって失脚・処刑された。フランス革命戦争期の政治危機と結びつけて理解されることが多く、近代革命史を考えるうえで欠かせない人物である。
出自と青年期
マクシミリアン=ロベスピエールは1758年、アルトワ地方の町アラスに生まれた。父は弁護士であり、比較的教養ある家に育ったが、幼少期に両親を失い孤児として成長したことが知られる。名門校で学んだ彼は成績優秀で、パリの法律学校を卒業したのち、郷里アラスで弁護士として活動した。啓蒙思想、とりわけルソーの思想に強い影響を受け、主権在民や平等、徳に基づく政治を理想とした点が、その後の政治的行動の基盤となった。
フランス革命初期と第三身分代表
1789年、身分制議会である三部会が招集されると、ロベスピエールは第三身分の代表として選出された。彼は特権身分である聖職者や貴族に対し、平等な課税と法の下の平等を主張し、議会の主導権を握ろうとする第三身分の中でも急進的な立場をとった。やがて三部会は国民議会へと転化し、王権と議会の対立は深まる。ロベスピエールは言論人として頭角を現し、パリの政治クラブであるジャコバン派の中心人物へと成長していった。
ジャコバン派の指導者と王政廃止
ジャコバン派は、王政打倒と共和政樹立をめざす急進派の集団であり、その中でロベスピエールは民衆運動と議会政治を結びつける役割を担った。1792年の8月10日事件でテュイルリー宮殿が襲撃され、ルイ16世が事実上失脚すると、王政は急速に崩壊へ向かう。翌1792年に発足した国民公会では、山岳派の指導者として国王処刑と王政廃止、そして第一共和政の樹立を強く主張し、共和制フランスの方向性を決定づけた。
サンキュロットと恐怖政治
1792年以降、革命フランスは対外的にはフランス革命戦争、国内的には王党派や反革命蜂起に直面し、存亡の危機に立たされた。こうしたなかで、パリの民衆であるサンキュロットは急進的要求を掲げ、穀物高騰の抑制や反革命勢力への厳罰を求めた。ロベスピエールは彼ら民衆と提携し、公安委員会を通じて非常措置を推進した。疑わしき者を裁く「嫌疑法」や価格統制などの政策は、国家総動員体制の一部として機能すると同時に、多くの処刑者を生み出す「恐怖政治」として記憶される。
徳の共和国と政治思想
ロベスピエールの政治思想の核心には、「徳」と「人民主権」を基礎とする共和国の構想があった。彼はラ=マルセイエーズに代表される革命的愛国心を尊び、市民が公共の利益のために自己を犠牲にする徳ある社会を理想とした。その一方で、徳を守るためには「恐怖」が必要であると主張し、革命の敵と見なした者に対しては容赦ない弾圧を正当化した。この理想と現実の緊張関係こそが、ロベスピエール政治の二面性として後世に議論を呼ぶ点である。
テルミドールのクーデタと最期
しかし、恐怖政治が長期化するにつれ、革命政権内部でも不安と反発が高まった。処刑の対象は王党派だけでなく、かつての同志や他の急進派にも及び、マラーらの死後、権力の集中は一層進んだ。1794年、軍事的にはヴァルミーの戦い以降フランス軍が優勢となり、非常事態が緩和されると、恐怖政治を続ける理由は薄れていく。1794年7月(革命暦テルミドール)に起こったテルミドールのクーデタでロベスピエールは逮捕され、仲間とともにギロチンで処刑された。
歴史的評価と影響
ロベスピエールの評価は、時代や立場によって大きく異なる。民衆の権利を擁護し、第一共和政と社会立法を推進した点では、近代民主主義への先駆と見る見方がある一方、多数の犠牲者を生んだ恐怖政治は独裁と暴力の象徴ともされる。彼の時代には、王の処刑からテュイルリー宮殿襲撃、そしてフランス革命戦争まで激動の事件が続き、政治的選択肢は常に極端になりがちであった。その中で、徳と平等に基づく共和国という理想と、非常時の安全保障という現実のあいだで揺れ動いた存在としてロベスピエールを捉えることが、フランス革命全体を理解するうえでも重要である。