テュイルリー宮殿|フランス革命劇の舞台となった宮殿

テュイルリー宮殿

テュイルリー宮殿は、パリ中心部でセーヌ川右岸に位置し、現在のルーヴル美術館とコンコルド広場のあいだに建てられていたフランス王家の宮殿である。かつてはルネサンス期から近代にかけて、ブルボン朝王宮、革命期の政治舞台、さらに帝政期の政権中枢として機能し、フランス革命とその後の政体変動を象徴する空間となったが、1871年の火災によって焼失し、現在はテュイルリー庭園のみがその名残をとどめている。

立地と名称の由来

テュイルリー宮殿が建てられた場所は、中世以来パリ城壁の外側にあった瓦焼き職人の工房地帯で、「瓦」を意味する仏語tuilerieに由来して名称が生まれた。セーヌ川に近いこの地域は、王都パリの西端に広がる開放的な空間であり、王権はここに新しい離宮を建設することで、都市の拡大と宮廷文化の演出を同時に進めたのである。のちに整備されたテュイルリー庭園は、ルーヴル宮殿前面の広大な景観と一体となり、パリ宮廷地区の中核をなしていった。

建設とブルボン朝宮廷

テュイルリー宮殿の建設は、宗教戦争の時代である16世紀後半に、王妃カトリーヌ・ド・メディシスの命によって開始された。建築家フィリベール・ド・ロルムらがルネサンス様式の離宮として設計し、のちにアンリ4世やルイ13世の時代に増改築が進む。17世紀には、ルイ14世が絶対王政を確立する過程で、フランス絶対王政の象徴であるヴェルサイユ宮殿を主要居所としたため、テュイルリー宮殿はパリにおける副次的な王宮として位置づけられたものの、儀礼や政治行事の舞台としては依然重要であり、ルーヴルとの間を結ぶ建築計画は王権の威信を示す巨大な「宮殿の連続体」を形成した。

フランス革命とテュイルリー宮殿

1789年のバスティーユ襲撃とヴェルサイユ行進を経て、ルイ16世と王家はヴェルサイユ宮殿からパリに移され、テュイルリー宮殿が事実上の王宮となった。ここで国王は憲法制定をめぐる交渉や、立法議会との緊張関係に直面し、やがて逃亡未遂事件が王政への不信を決定的なものとする。1792年8月10日、義勇兵とパリ市民が宮殿を襲撃する8月10日事件が勃発し、スイス衛兵が多数殺害され、王権は停止された。事件後、テュイルリー宮殿は国有化され、革命政府の議場や委員会の事務空間として利用され、フランス革命戦争や内戦の決定がなされる政治の中心に変貌した。

市民革命の象徴空間としての役割

テュイルリー宮殿前の広場や庭園は、革命期のデモンストレーション、祝祭、追悼式の会場として繰り返し用いられた。ここで行われた民衆集会や軍事パレードは、王宮を民衆の政治空間へと変える試みであり、のちの市民革命のイメージとも重ねられることが多い。旧王宮を背景にした共和国の儀礼は、君主制から共和制への転換を視覚的に表現する装置でもあった。

ナポレオンと帝政期の宮殿

総裁政府と統領政府の時代、テュイルリー宮殿は行政の中心として再整備され、やがて第一統領ナポレオンはここを自らの居所とした。1804年の皇帝即位後、ナポレオン1世は宮殿とルーヴルをつなぐ建築計画を進め、サロンでは外交儀礼や勲章授与が行われた。帝政期の軍事的成功や領土拡大は、この宮殿から全ヨーロッパに向けて発信され、19世紀前半の王政復古や七月王政の時代にも、テュイルリー宮殿は再び王宮として利用され続け、パリ政治の象徴的中心であり続けた。

パリ・コミューンと焼失

19世紀後半、普仏戦争と第二帝政崩壊ののち、パリでは1871年にパリ・コミューンが成立した。ヴェルサイユ政府軍が市内へ進撃するなか、コミューン側は旧体制と帝政を象徴する建造物を破壊しようとし、テュイルリー宮殿にも放火が行われる。炎は数日間続き、内部の装飾や絵画、家具はほとんど失われ、黒く焼け焦げた外壁だけが残された。その後、第三共和政政府は廃墟を撤去する決定を下し、1870年代に完全に解体されたことで、テュイルリー宮殿はパリの景観から姿を消した。

現在のテュイルリー庭園と歴史的記憶

今日、かつてテュイルリー宮殿があった場所には建物は存在せず、ルーヴル美術館とコンコルド広場を結ぶ開けた空間とテュイルリー庭園が広がっている。庭園はフランス式庭園の代表的景観として多くの観光客をひきつけると同時に、フランス革命、帝政、パリ・コミューンといった政治史の記憶を秘めた場所でもある。宮殿本体の再建をめぐっては、文化財保護や景観の問題から賛否が分かれており、失われた王宮をどのように記憶し、都市空間のなかで位置づけるかという議論が現在も続いている。