恐怖政治
恐怖政治とは、フランス革命期の共和政が内外の危機に直面する中で、革命政権が反革命勢力を抑えこみ、戦争を遂行するために採用した非常措置の体制である。おおむね1793年から1794年にかけて、急進派が国民公会を主導し、多数の処刑と徹底した監視体制を通じて「自由・平等・友愛」を掲げる共和国を守ろうとしたが、その過程で法の保障は大きく後退し、専制にも似た統治が生まれた。この時期の政策は、外敵との戦争や国内反乱をしのぎ近代的な動員国家を準備した一方で、後世には暴力と抑圧の象徴として記憶されることになった。
フランス革命の危機と恐怖政治の前提
1792年に王政が倒れ共和政が宣言されると、革命フランスはヨーロッパ諸国との戦争に巻き込まれ、国内では王党派や地方の保守勢力が反乱を起こした。国王処刑後、列強は対仏戦争を拡大し、内外の危機が同時進行するなかで、穏健な勢力は信用を失っていく。農村では徴税や徴兵に反発する反乱が広がり、一部地域では内戦に近い状況が生じた。こうした非常事態に対し、急進共和派は非常権限を集中させて危機を乗り切ろうとし、その結果として恐怖政治が制度化されていったのである。
保安委員会と革命裁判所による権力集中
非常時の安全保障を担うために設置された保安委員会は、国内の治安維持やスパイ摘発を担当し、逮捕・監視の権限を拡大していった。これと並行して、政治犯を裁く特別法廷として革命裁判所がパリに置かれ、陪審による簡略な審理で迅速な判決を出す仕組みが整えられた。国民公会はこれらの機関に大きな裁量を与え、反革命の疑いをかけられた者は短期間で裁判にかけられ、しばしば死刑判決を受けた。かくして、議会が制定した法律と並んで、特別委員会と特別裁判所が恐怖政治の中核機構として機能するようになったのである。
非常措置と司法の簡略化
戦時の危機が深まると、政府は反革命の「嫌疑」を広く定義する法律を制定し、証拠や弁明よりも素早い処断を優先する傾向を強めた。嫌疑法や、裁判の形式を大幅に簡略化する法律は、政治的な敵対者だけでなく、日常的な不満や私的な対立をも「革命裁判」の場に持ち込ませる結果となった。これにより恐怖政治は、秩序維持の手段であると同時に、人々のあいだに相互不信と沈黙を広げる装置ともなった。
- 反革命の定義が拡大され、発言や交友関係も嫌疑の対象となった。
- 弁護士抜きの審理や略式手続きが増え、無罪の可能性は著しく低下した。
- 断頭台による公開処刑が頻発し、恐怖と「革命的正義」が結びつけられた。
戦時動員と社会統制
恐怖政治は、単なる弾圧政策ではなく、大規模な戦時動員と結びついていた。共和政政府は国民すべてに軍役義務を課す徴兵制を徹底し、兵士と市民の境界を曖昧にしながら、国家防衛の責任を共有させた。この制度は大規模な国民軍を生み出し、その形成過程は国民軍の形成として理解されている。また、物価の高騰と飢餓を抑えるために、政府は必需品の価格上限を定める最高価格令を布告し、市場に対する強力な統制を行った。こうした政策は、民衆からの支持と抵抗を同時に呼び起こしつつ、戦争遂行を可能にする経済・社会体制を整える役割を果たした。
日常生活と時間・価値観の再編
恐怖政治のもとで、革命政権は政治と戦争だけでなく、宗教・時間・度量衡といった日常生活の基盤をも変革しようとした。教会権威を排し理性的な市民宗教を打ち立てようとした運動は、理性の崇拝として知られ、伝統宗教に代わる新たな公共儀礼が試みられた。また、王や聖人の名に結びついた月日を切り離すべく、新たな暦法である革命暦が導入され、共和政の開始を時間の起点とする試みが行われた。さらに、長さや重さの単位を統一するメートル法が採用され、取引や技術において合理的で普遍的な基準が整えられた。これらの改革は、暴力と抑圧に支えられながらも、「理性にもとづく新しい社会」をつくろうとする革命の理想を体現したものであり、その緊張関係こそが恐怖政治を歴史的に特異な現象としているのである。