ワシントン|独立戦争を導く初代大統領

ワシントン

ワシントン(George Washington)は、18世紀後半の北アメリカ植民地における指導者であり、アメリカ独立戦争の大陸軍総司令官として独立を勝ち取ったのち、新しく成立した合衆国の初代大統領となった人物である。英国植民地社会の地主層に属しつつも、課税問題や政治的自由の擁護を通じて独立運動を主導し、軍事的・政治的両面で新国家の基礎を築いた存在として、後世には「建国の父」のひとりと評価されている。

生い立ちと植民地紳士としての経歴

ワシントンは1732年、バージニア植民地のプランテーション経営者の家に生まれた。若くして測量師として働き、フロンティア地帯の実情に通じるとともに、土地所有によって社会的地位を高めた。成人後は大農園の経営者となり、タバコを中心とした輸出農業と奴隷労働に依拠する典型的な南部植民地の紳士として振る舞った。その一方で、植民地議会であるバージニア植民地議会の議員も務め、地域社会の名望家として政治経験を積んでいった。

フレンチ=インディアン戦争と軍事的経験

七年戦争の一部であるフレンチ=インディアン戦争において、ワシントンはバージニア民兵隊の若き指揮官としてオハイオ川流域に出兵した。遠征は必ずしも成功しなかったが、この経験によってイギリス軍の戦術や補給、インディアン諸部族との関係、フロンティア防衛の困難さを学んだことは、その後の軍歴の基礎となった。また、戦争を通じて本国軍人による植民地人への差別的待遇を目にしたことは、植民地社会における自立意識を高める一因ともなった。

課税問題への対応と独立運動への参加

戦後、イギリス本国政府は財政再建のため、植民地に対して印紙法タウンゼント諸法といった課税立法を次々と導入した。植民地側では「代表なくして課税なし」の原則を掲げて反発が高まり、ボストン茶会事件やそれに続く強圧的諸条令ボストン港封鎖などを契機に、両者の対立は決定的となる。ワシントンはバージニアの大地主として本国との経済的関係を持ちながらも、英製品ボイコットに賛同し、植民地側の抵抗運動を支持した。

大陸軍総司令官としての指導

1774年に開かれた大陸会議は、植民地代表による連携機関として独立運動を組織化した。翌年、レキシントンの戦いなど武力衝突が始まると、第二回大陸会議はワシントンを大陸軍総司令官に任命した。彼は統一された正規軍を編成し、補給難や兵士の脱走、各植民地の利害対立といった困難に直面しながらも、長期戦略をとって軍を維持した。冬営地バレー・フォージでの苦境を乗り越え、フランスとの同盟を得て軍事支援を受けることで、やがて独立軍は優位に立つようになった。

独立達成と引退

1781年、フランス軍との協同作戦のもとでヨークタウン包囲戦に勝利すると、イギリスは事実上敗北し、講和交渉に入った。1783年のパリ条約により、イギリスはアメリカ合衆国の独立を承認した。勝利後、ワシントンは軍の指揮権を返上して一時的にバージニアの私邸に隠退し、軍事的権力を手放した姿勢は、古代ローマの市民的美徳になぞらえて賞賛された。この行動は、新国家における文民統制と共和政の理想を象徴する出来事として記憶されることになった。

合衆国憲法と初代大統領としての役割

独立後、連合規約のもとで運営された新国家は、財政難や州政府間の対立によって不安定であった。こうした状況を受けて憲法制定会議が開かれると、ワシントンはその威信によって各州の協調を促し、より強力な連邦政府を持つ合衆国憲法の成立を後押しした。1789年、新憲法に基づく初の選挙で彼は全会一致で大統領に選出され、二期にわたり政権を担当した。大統領としては、財政基盤の整備や首都建設、対外的中立政策など新国家の基本路線を定め、政党対立が激化する中でも、国家統合の象徴として振る舞った。

晩年と歴史的評価

第三期を求める声もあったが、ワシントンは自ら退任を表明し、自らの先例によって「大統領二期まで」という慣行を形作った。これは後に成文化され、権力の世襲化や長期独裁を防ぐ仕組みとして重視されるようになる。また、彼の名を冠した首都ワシントンD.C.が建設されたことは、その象徴的地位を示している。一方で、大農園主として奴隷制に依存していた事実は、近年の歴史研究や市民意識の変化の中で批判的に問い直されている。こうした矛盾を含みつつも、アメリカ合衆国の独立と新国家建設における核心的人物として、ワシントンの存在は世界史の中で重要な位置を占め続けている。