アメリカ独立戦争|13植民地が自由を求めた戦い

アメリカ独立戦争

アメリカ独立戦争は、北アメリカ東岸の13植民地がイギリス本国と武力衝突し、最終的に独立国家アメリカ合衆国を成立させた戦争である。1775年の戦闘開始から1783年のパリ条約締結まで続き、植民地支配への抵抗運動が本格的な革命戦争へと転化し、近代的な共和国誕生の端緒となった。

戦争勃発までの背景

18世紀前半、13植民地は自治議会を持ち、経済的にも発展していたが、本国イギリスは七年戦争後の財政難を背景に植民地への課税を強めた。特に砂糖法印紙法、さらに関税を拡大したタウンゼント諸法は、植民地の商業活動を圧迫し、強い反発を招いた。植民地の人びとは、イギリス議会に自らの代表を持たないにもかかわらず課税されることを不当と考え、「代表なくして課税なし」というスローガンを掲げて抵抗した。この主張を先鋭に唱えた一人が、バージニア植民地の弁護士で政治家のパトリック=ヘンリーであり、彼の演説は反英感情を鼓舞した。

ボストン茶会事件とイギリスの強硬策

アメリカ側と本国の対立が決定的となる契機が、1773年の茶法と、それに対する抵抗として起こったボストン茶会事件である。東インド会社に茶の独占販売権を与えた茶法は、植民地商人の利害を損ねるものであり、ボストンの急進派は港に停泊する船から茶箱を海に投棄する行動に出た。これに対しイギリス政府は、マサチューセッツ植民地の自治を制限し、ボストン港を閉鎖するなどの報復立法強圧的諸条令を制定し、その一環としてボストン港封鎖を実施した。これらの強硬策は、個々の植民地の不満を「大陸植民地」全体の共通問題へと変え、第一次大陸会議の開催と植民地間の連帯に結びついた。

武力衝突と独立宣言

1775年、マサチューセッツ植民地のレキシントン・コンコードでの銃撃戦をきっかけに、本格的な戦闘が始まった。第二次大陸会議は植民地軍の最高司令官にジョージ・ワシントンを任命し、事実上の統一軍を組織した。当初、植民地側の目的は本国への忠誠を保ちながら不当な課税を是正することであったが、戦闘が長期化するなかで完全な分離・独立を求める声が強まった。1776年7月、大陸会議はトマス・ジェファソンらが起草した独立宣言を採択し、13植民地はイギリスからの離脱と新国家樹立の意思を世界に公表した。これによりアメリカ独立戦争は、単なる反乱ではなく、独立革命としての性格を明確にした。

戦争の展開と国際化

  • 当初、イギリス軍は正規軍と海軍力を背景に優位であったが、広大な戦域と補給の困難が次第に重荷となった。
  • 1777年のサラトガの戦いで植民地軍が大勝すると、その成果を見たフランスがアメリカ側を正式に承認し、軍事同盟を結んだ。
  • フランス参戦に続き、スペインやオランダも対英戦争に加わり、アメリカ独立戦争はヨーロッパ列強を巻き込む国際戦争の様相を帯びた。
  • 1781年、ヨークタウンでの戦いでワシントン軍とフランス軍が協力してイギリス軍主力を包囲・降伏させたことにより、戦争の趨勢は決定的となった。

パリ条約と合衆国誕生の意義

1783年に締結されたパリ条約において、イギリスは13植民地の独立を正式に承認し、新国家アメリカ合衆国の成立が国際的に認められた。合衆国はミシシッピ川以東の広い領域を獲得し、西部フロンティアへの拡大基盤を手に入れた。政治的には、各州の憲法制定や連合規約の下での統治が試みられ、のちの合衆国憲法制定への過程が始まる。こうしてアメリカ独立戦争は、王権を打倒し共和政体を樹立した革命として、後世のフランス革命やラテンアメリカの独立運動に大きな刺激を与えた。また、戦争とその成果は、自由・平等・人民主権といった理念を具体的な国家制度として体現した点で重要であり、その帰結については、独立達成後のアメリカ合衆国の独立の歴史と密接に結びついている。