ボストン港封鎖|茶会事件への報復封鎖

ボストン港封鎖

ボストン港封鎖は、1773年のボストン茶会事件に対する報復として、イギリス議会が1774年に制定したボストン港閉鎖法に基づき実施された措置である。ボストン港での出入港と貿易を全面的に停止し、東インド会社への損害賠償が支払われるまで封鎖を続けると定めたこの政策は、マサチューセッツ植民地の経済と社会に大打撃を与えた。同時にそれは、北米植民地全体に対する威嚇として構想されたが、結果として植民地側の連帯を促し、やがてアメリカ独立戦争へとつながる反英感情を決定的に高めることになったのである。

制定の背景

ボストン港封鎖の直接の契機となったのは、東インド会社に紅茶販売の独占権を与えた茶法と、それに対する植民地側の激しい抗議であった。ボストンの急進派は、関税の支払いを拒否するために茶箱を港に投棄し、これがボストン茶会事件として知られるようになった。イギリス政府とイギリス議会は、植民地の抵抗を放置すれば帝国支配が揺らぐと考え、見せしめとしてボストンに厳罰を科す方針を固める。このようにボストン港封鎖は、帝国の権威維持と植民地懲罰を目的として構想されたのである。

イギリス本国の政策と懲罰の論理

イギリス本国はそれ以前から、砂糖法印紙法タウンゼント諸法など、一連の課税政策を通じて北米植民地からの財源確保を図っていた。これらはしばしば「代表なくして課税なし」というスローガンを掲げる植民地側の抵抗に遭い、部分的な撤回や修正を余儀なくされていた。そのため政府内部では、譲歩を続ければ植民地が一層強気になるという危機感が高まり、むしろ苛烈な懲罰を加えることで従順さを取り戻そうとする発想が強まった。こうした流れの中で、ボストンは「反抗の中心」と見なされ、港湾封鎖という抜本的な制裁が選択されたのである。

ボストン港封鎖の具体的内容

  • ボストン港への出入りを行う船舶の航行を全面禁止すること
  • 食料や生活必需品を除く物資の積み下ろしを認めないこと
  • 東インド会社への損害賠償が支払われるまで封鎖を継続すること
  • 一部の行政機能や通商を近隣の港へ移転させること

このような条項によって、ボストン市民は貿易による収入をほぼ完全に失い、商人だけでなく港湾労働者や職人、農民に至るまで深刻な経済的打撃を受けた。港湾都市として発展してきたボストンの生活基盤そのものが揺らいだため、封鎖は単なる外交・軍事的措置にとどまらず、市民社会を標的とした経済制裁の性格を帯びていたのである。

植民地社会への影響

ボストン港封鎖によって、ボストンの商業活動は急速に縮小し、多くの人々が失業や貧困に直面した。だがその一方で、この苦境は他の植民地からの支援を呼び起こした。ニューイングランドや中部植民地、さらには南部のアメリカ合衆国諸植民地からも、物資や寄付金がボストンに送られ、祈祷日や募金活動を通じて連帯意識が育まれていった。イギリス政府がボストンを孤立させようとした意図とは裏腹に、封鎖は北米植民地全体を結びつける象徴的事件として受け止められたのである。

大陸会議の召集と連帯の拡大

ボストンへの制裁が強化されると、植民地側の指導者たちは個別植民地の抗議では不十分だと認識し、共通の対応を協議するための会合を求めるようになった。1774年、フィラデルフィアで第1回大陸会議が開かれ、各植民地の代表が集まり、対英非輸入・非消費などの集団的な抵抗策が協議された。この場でボストン支援が正式に確認され、イギリス本国に対する抗議文が採択されることで、植民地間の政治的連帯は質的に新たな段階へと進んだのである。

アメリカ独立戦争への道

ボストン港封鎖は、それ自体が直接戦闘を引き起こしたわけではないが、イギリスによる圧政の象徴として植民地人の記憶に深く刻まれた。封鎖に続いてマサチューセッツ植民地政府の自治を大幅に制限する法などが制定されると、武装抵抗を含む対抗手段を求める声が高まっていく。やがてレキシントン・コンコードにおける武力衝突を経てアメリカ独立戦争が勃発するが、その前段階においてボストン港封鎖は、植民地側の心理と政治過程を大きく変化させた転換点であった。

「耐え難い諸法」の一環としての位置付け

植民地側の言葉で言えば、ボストン港封鎖を定めた法は他の懲罰法とともに「耐え難い諸法」と総称された。これらは、ボストンへの制裁にとどまらず、マサチューセッツの自治制度を解体し、裁判制度や行政組織を本国の統制下に置こうとする包括的な再編であった。そのため、問題は単なる税負担ではなく、自由な自治と議会政治の原則そのものが脅かされているという認識が広がる。こうした理解が、後の独立宣言においてイギリス王権への体系的な批判へと結びついていくのである。

歴史的意義

歴史的に見れば、ボストン港封鎖は帝国と植民地の関係が調整不能な段階に入ったことを象徴する出来事である。イギリス側は権威の回復を意図したが、結果として植民地側の団結を促進し、自らの支配の正当性を弱めてしまった。ボストンの市民や指導者たちにとって封鎖は苦難の時期であったが、その経験は後に新しい共和国建設の原体験として語り継がれることになる。この意味でボストン港封鎖は、帝国崩壊の一局面であると同時に、新たな政治秩序が生まれる重要な契機であったと評価できる。