ラテラノ条約
ラテラノ条約は、1929年にイタリア王国政府とローマ教皇庁が締結した協定であり、「ローマ問題」と呼ばれた国家と教皇との長年の対立を終結させた条約である。この条約によってローマ市内にバチカン市国が独立国家として成立し、イタリア国家はカトリック教会の特権的地位を承認した。ムッソリーニ率いるファシスト政権にとっては、カトリック教会との和解を通じて体制の正統性を高める政治的意味を持ち、教皇側にとっても領土喪失後の立場を再確認する重要な契機となった。
歴史的背景
ラテラノ条約の背景には、19世紀のイタリア統一運動とその結果として生じた「ローマ問題」がある。教皇はかつて広大な教皇領を支配していたが、イタリア統一運動の進展により領土の大部分を失い、1870年にローマが併合されると自らを「バチカンの囚人」と称してイタリア国家の正統性を認めなかった。この対立は世俗国家とカトリック教会の関係をめぐる象徴的な争いであり、近代イタリア政治の根本問題の一つであった。
20世紀に入ると、第一次世界大戦とその後の社会不安、さらにヴェルサイユ条約体制への不満がイタリア国内に広がり、政治的・社会的な分断が深まった。戦後の混乱の中で、急進的な労働運動やイタリア社会党の台頭に対抗する形で、右翼的な大衆運動としてファシズムが拡大した。こうした状況の中で国家と教会の協調を図ることは、保守層・宗教勢力を取り込もうとする支配層にとって重要な課題となった。
ファシスト政権と教皇庁
1922年のローマ進軍によって政権を掌握したムッソリーニとファシスト党は、自らの権威を強化するためにカトリック教会との関係改善を重視した。一方、教皇庁も社会主義や無神論的運動の拡大を警戒しており、反共・反社会主義の観点からファシスト政権と一定の利害を共有していた。こうして、長年の「ローマ問題」を包括的に解決する政治交渉が本格化し、その帰結としてラテラノ条約が構想されることになったのである。
締結の経緯
ラテラノ条約の交渉は1926年頃から本格化し、イタリア側代表としてムッソリーニ、教皇庁側代表として国務長官ガスパーリ枢機卿らが中心となった。交渉はローマのラテラノ宮で行われ、領土問題、財政補償、教育・婚姻といった教会の権限に関する諸問題が一括して協議された。1929年2月11日、両者は最終的な合意に達し、同年6月にイタリア議会が批准したことで条約は正式に発効した。
条約の主な内容
ラテラノ条約は、厳密には「条約」「政教協約」「財政協定」の3つから構成されるが、その核心は次の諸点にまとめられる。
- バチカン市国を教皇の主権を持つ独立国家として承認すること
- イタリア国家がカトリック教を事実上の国教として優越的地位に置くこと
- 教皇領喪失に対する補償金・国債などの財政的補償を行うこと
バチカン市国の成立
ラテラノ条約によって、ローマ市内に位置するバチカンは、面積こそ小さいものの主権を有する独立国家として国際的に承認された。これにより教皇は特定の国家に従属しない超国家的宗教指導者としての地位を回復し、カトリック世界全体に対する精神的権威を保持しうる基盤が再構築された。
宗教と国家の関係
ラテラノ条約はイタリアにおけるカトリック教会の特権的地位を明確にした。カトリック婚姻の法的効力、宗教教育の優遇、聖職者への保護などが定められ、国家と教会は相互に干渉しないという原則のもとで協力関係を築くことになった。こうした規定は、世俗国家と宗教勢力の折衷的な妥協として理解される。
賠償と経済的側面
ラテラノ条約では、教皇領喪失に対する補償として、多額の現金と国債が教皇庁に支払われた。これにより教皇庁は財政基盤を整え、世界各地の教会活動や慈善事業を支える経済的余地を獲得した。一方、イタリア政府にとっては、この財政負担と引き換えに長年の対立を解消し、政体の安定を図ることができたといえる。
イタリア政治への影響
ラテラノ条約は、ファシスト政権にとって大きな政治的勝利と宣伝された。教皇との和解は多くのカトリック信徒に安心感を与え、政権への支持拡大に寄与したとみられる。教会側も、反共主義の立場からファシスト体制を一定程度容認し、その結果としてイタリア社会における反体制勢力の空間は狭められた。この点で、条約は20世紀前半の権威主義体制と宗教勢力の協調という文脈の中で理解される。
その後の展開
ラテラノ条約で確立された枠組みは、第二次世界大戦後のイタリア共和国においても基本的に維持されたが、1984年の改定協定によってカトリック教は形式上の国教ではなくなり、政教分離の原則がより明確になった。それでもなお、同条約はバチカン市国の地位とイタリア国家との関係を規定する基礎として機能し続けており、20世紀ヨーロッパにおける国家・宗教・政治体制の関係を理解するうえで欠かせない歴史的文書である。