ユーゴスラヴィア王国
ユーゴスラヴィア王国は、1929年にそれまでのセルブ=クロアート=スロヴェーン王国が改称して成立した王制国家であり、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人など多様な南スラヴ民族をひとつの国家に統合しようとした国家である。第一次世界大戦後の新しい国際秩序と東欧バルカン地域の再編の中で誕生したが、中央集権的な王権と各民族の自治要求との対立、周辺諸国との緊張、そして全欧的な権威主義化の波に翻弄され、第二次世界大戦期に崩壊へと向かった。
成立の背景
第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、スラヴ系住民の多い地域ではセルビア王国を中心に統合国家をつくろうとする動きが強まった。その結果、1918年に誕生したセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人の国家がのちのユーゴスラヴィア王国であり、当初はセルビア王家を戴く立憲君主国として出発した。戦後ヨーロッパではドイツの賠償問題やドーズ案などに象徴される不安定な国際経済秩序が続き、東欧バルカン地域でも国境線や少数民族問題をめぐる緊張が高まり、新国家の政治・外交環境はきわめて不安定であった。
王国の政治体制と権威主義化
成立当初のユーゴスラヴィア王国は議会制と憲法を備えた立憲君主国であったが、議会ではセルビア・クロアチア・スロヴェニアなど各民族政党が激しく対立し、安定した政権は生まれにくかった。1929年、国王アレクサンダル1世は議会を停止し、国号を現在知られる形へ改め、王令による統治を進めた。これは東欧各国で進行していた権威主義化の一環であり、ポーランドのピウスツキ政権やハンガリーの摂政ホルティ体制と同様、軍部や王権が議会政治を制限する傾向に属する。こうした流れは、地域全体を扱う東欧バルカン諸国の動揺とイタリアのファシズムというテーマとも深く関連している。
民族問題と国内統合の困難
ユーゴスラヴィア王国の最大の課題は、多民族国家としての統合であった。セルビア人は、戦勝国の中心として国家の主導権を握っているとの自負から中央集権的な国家像を支持したのに対し、クロアチア人はハプスブルク帝国時代からの自治伝統に立脚して連邦制や地方自治の強化を求めた。スロヴェニア人やボスニアのムスリムなどもそれぞれ固有の歴史的背景と利害を持ち、王権による一律の「南スラヴ統合」政策は必ずしも各民族の支持を得られなかった。クロアチア民族主義運動の一部は急進化し、議会内外で対立が先鋭化することで、王国の政治的安定は長期的に損なわれることになった。
国際関係と第二次世界大戦への巻き込まれ
ユーゴスラヴィア王国は国際的にはチェコスロヴァキア・ルーマニアとともに小協商を結び、ハンガリーやブルガリアなど revision を志向する諸国に対抗しようとした。しかし、世界恐慌後にドイツでヒトラーが台頭すると、東欧バルカン諸国の勢力図は急速に変化した。ハンガリーではかつてのハンガリー革命の経験を経て保守的なホルティ体制が領土回復をめざし、イタリアやドイツとの接近を強める。こうした包囲網の中で王国は列強との均衡外交を試みたが、1941年に独伊を中心とする枢軸国が侵攻すると、国内の民族対立も相まって短期間で崩壊し、その領域は独立クロアチア国をはじめとする傀儡政権や占領地域に分割された。その後、パルチザン勢力の抵抗と戦後再編の過程を経て、王制は廃止されて社会主義的な新生ユーゴスラヴィア国家へと移行していくことになる。