ハンガリー革命
ハンガリー革命は、1848年にオーストリア帝国内で発生した民族独立と自由を求める運動であり、ヨーロッパ各地に広がった「三月革命」の一環として位置づけられる。指導者ルヨシュ・コシュートのもとで、ハンガリー人は封建的特権の廃止、言語・文化の尊重、近代的な議会政治の導入を求め、ウィーン政府と対立した。この革命は最終的にはオーストリアとロシアの連合軍によって鎮圧されたが、のちの二重帝制成立や民族運動の高揚に大きな影響を与えた出来事である。
ウィーン体制と民族運動の高まり
ナポレオン戦争後のヨーロッパでは、ウィーン会議によって保守的な国際秩序、いわゆるウィーン体制が成立し、オーストリア帝国は多民族国家として中欧の覇権を握った。しかし帝国内にはマジャル人、スラブ人、ルーマニア人など多様な民族が存在し、それぞれが自民族の言語と自治を求めるようになった。とくにハンガリーでは、啓蒙思想やナショナリズムの影響を受けた貴族・知識人層が、封建制度の改革と国民国家の建設を志向し、改革派と保守派の対立が深まっていった。
ヨーロッパ革命の波及とハンガリーの蜂起
1848年2月にフランス革命の再来ともいわれる二月革命が起こると、その影響は急速にウィーンやドイツ諸邦、イタリアへ波及し、「三月革命」と呼ばれる自由民権運動の連鎖が生じた。ウィーンでも民衆蜂起によってメッテルニヒが失脚し、その混乱を好機とみたハンガリーの改革派はペストで行動を開始した。作家ペテーフィら急進派の詩人・学生は「十二か条の要求」を読み上げ、検閲廃止や責任内閣の設置、農奴制廃止などを掲げ、大衆の支持を得ていった。
コシュートと独立政権の樹立
この過程で中心人物となったのがコシュートであり、彼はハンガリー議会での雄弁な演説によって改革派を結集した。ウィーン政府は妥協を余儀なくされ、1848年春にはハンガリーに自治的な責任内閣が認められ、封建的身分制の廃止など「三月法」と呼ばれる改革が実現した。ここには、フランスやドイツ三月革命と共通する立憲主義・市民的自由の理念が反映されていた。しかし周辺スラブ系諸民族は、マジャル人による一方的な主導に反発し、オーストリアに支援を求めるなど、帝国内部の民族対立はむしろ激化していった。
オーストリアの反攻とロシア軍の介入
1848年後半、ウィーンの革命が敗北し保守勢力が巻き返すと、オーストリア政府はハンガリーに対する強硬策へ転じた。クロアチア総督イェラチッチを先頭とする軍がハンガリー領内に侵入し、内戦状態が発生する。ハンガリー側も義勇軍を組織し、当初はいくつかの戦闘で勝利を収めたが、皇帝側はロシア帝国に援軍を要請した。ニコライ1世は反革命の立場から出兵を決定し、多数のロシア軍がカルパチア山脈を越えて侵攻した結果、ハンガリー革命は圧倒的な軍事力の前に追い詰められていった。
降伏と報復
1849年夏、最後の拠点となったラヨシュマーシャル付近でハンガリー軍は包囲され、指導者たちは降伏に追い込まれた。コシュートは国外へ亡命したが、多くの将軍や政治家は処刑・投獄され、ハプスブルク家は厳しい中央集権化を進めた。この弾圧は「ハンガリーの殉教者」として記憶され、のちの民族運動の象徴となる。オーストリアは一時的に帝国内の反乱を抑えたものの、内外の圧力によって財政難と政治的不安定が続き、イタリア統一やドイツ統一の過程で勢力を後退させていった。
ハンガリー革命の歴史的意義
ハンガリー革命は、短期的には失敗に終わったが、帝国内の民族問題と自由主義運動の根深さを浮き彫りにした点で重要である。オーストリアはプロイセンやロシアとの力関係の変化に直面し、最終的に1867年の「アウスグライヒ(妥協)」によってオーストリア=ハンガリー二重帝国を成立させた。この妥協はハンガリー側の自治を大幅に認めるものであり、1848年の要求の一部が遅れて実現したともいえる。他方で、スラブ系諸民族は依然として周縁化され、民族自決の問題は第一次世界大戦後まで持ち越された。こうした経緯は、ヨーロッパにおける民族自決の原理や、立憲君主制と帝国支配の矛盾を理解するうえで不可欠であり、ハンガリー革命は19世紀国民国家形成史の一画をなす事件として位置づけられる。
- ヨーロッパ史における1848年革命の一環として理解される。
- 多民族帝国オーストリアの構造的問題が露呈し、後の二重帝制への転換を促した。
- ナショナリズムと自由主義、帝国と民族運動の衝突という近代史の典型的課題を示した。