プレヴェザの海戦|オスマン海軍が地中海制海権主導

プレヴェザの海戦

プレヴェザの海戦は、1538年9月、イオニア海のアムブラキコス湾(アルタ湾)入口のプレヴェザ沖で行われた海戦である。オスマン帝国艦隊を率いるハイレッディン・バルバロッサと、ローマ教皇庁・ハプスブルク系勢力・ヴェネツィアなどから成る「神聖同盟」連合艦隊(総司令はアンドレア・ドーリア)が衝突し、結果はオスマン側の勝利となった。この勝利により東地中海の制海権は長期にわたりオスマンに傾き、レパントの海戦(1571)以前の地中海世界秩序を規定した重要転機と評価される。

背景

16世紀前半、オスマン帝国はスルタンスレイマン1世の下で領土と海上勢力を拡大し、アナトリア・バルカン・エーゲ海にわたる覇権を確立しつつあった。先行期にはメフメト2世コンスタンティノープルの陥落を実現して帝都をイスタンブルに移し、海軍整備の基礎を築いた。16世紀に入ると、コルフ島方面への遠征やエーゲ各島の掌握をめぐってヴェネツィアと緊張が高まり、教皇パウルス3世の呼びかけで「神聖同盟」が編成されるに至った。連合はスペイン系・ジェノヴァ系の戦力を中核とし、オスマン側は提督バルバロッサを中心にガレー艦隊を結集、宮廷もトプカプ宮殿からの後援でこれを支えた。

参戦勢力と戦力

  • オスマン帝国艦隊:ガレー船を主軸に、沿岸砲台と連携可能な運用を重視。提督はハイレッディン・バルバロッサ、旗艦は大型ガレー。
  • 神聖同盟艦隊:ヴェネツィア・スペイン・ジェノヴァ・教皇領などの混成。総司令はアンドレア・ドーリア。各勢力の利害差と指揮系統の複雑さが内在的課題であった。

戦場と布陣

戦場はプレヴェザ沖からアクティウム岬にかけての浅瀬と潮流が入り組む海域である。オスマン側は沿岸砦の支援射撃と地の利を得るため、湾口近くに布陣し、風向・潮流・浅瀬を味方につける形で正面決戦を志向した。連合側は外洋寄りに展開したが、ばらつきのある指揮下で隊形維持に課題を抱えた。

戦闘の経過

  1. 開戦:連合艦隊は広正面で前進するが、ドーリアは浅瀬接近を忌避して間合いを取る。バルバロッサは機動力の高いガレー隊で側面圧力を強め、敵の結束を崩しにかかった。
  2. 中盤:オスマン側は砦の射程と海流を計算し、前衛が押し出す形で交戦を継続。連合側は諸分艦の歩調が合わず、各個に応戦する局面が増え、全体火力が集中しにくくなった。
  3. 終盤:日没にかけて連合側は被害増大と隊形乱れから後退を選択。オスマン側は追撃で優勢を固め、プレヴェザの海戦はオスマン勝利のまま終結した。

戦術と技術

本戦は帆走よりも櫂走主体のガレー戦術が主流で、接近戦・白兵戦・近距離砲撃の組合せが勝敗を分けた。オスマン側は艦の操艦と漕手運用、浅瀬・潮流の読み、岸砦支援との同期に優れ、連合側の統一運用の弱さを突いた。特定艦種の優劣より、現地海象に適合した指揮統制が勝因であった。

結果と影響

プレヴェザの海戦の勝利は、エーゲ海・イオニア海の制海権をオスマンにもたらし、商船護送と沿岸拠点の掌握を容易にした。ヴェネツィアは以後の講和で譲歩を余儀なくされ、レヴァント交易の主導権はしばしオスマン側の保護下に置かれた。これによりハプスブルク=オスマン対立の重心は、地中海と中欧の二正面で展開する構図が強まった。

主要人物の位置づけ

バルバロッサは海軍提督として名声を確立し、イスタンブル宮廷における海軍政策の発言力を高めた。ドーリアは艦隊温存を優先した運用で批判も受けたが、混成艦隊の限界を象徴する事例ともいえる。宮廷・財政・海軍の連接が機能した点で、オスマン側の組織力が際立ったといえる。

地政学的文脈

バルカン内陸の帰趨は海上と無縁ではない。1526年のモハーチの戦いでハンガリー王国が動揺し、続く1529年のウィーン包囲(第1次)で中欧は緊張をはらんだ。海上での覇権確立は、補給線の防護や沿岸都市圧力を通じて内陸戦線にも影響し、地中海とドナウ・中欧世界の相関を強めた。こうした相関はハンガリー情勢にも長期的に作用した。

史料と後世の評価

同時代の年代記や各国の報告は記述に差異があるが、総体としてプレヴェザの海戦は「戦術的勝利が戦略的優位を開く」典型例と理解される。統一指揮下の運用、地形・海象への適応、後背支援の整合性といった要素が絡み合い、単純な艦数や火砲数の比較では測れない結果を生んだ。帝都イスタンブルを中心とするオスマンの制度的強靭さは、宮廷・造船・補給の総合力として海戦の背後に存在していた。

年表(要点)

  • 1537年:オスマン艦隊、イオニア海方面で行動。緊張激化、神聖同盟の結成機運が高まる。
  • 1538年9月:プレヴェザ沖で会戦、オスマン側が勝利。
  • 1540年前後:ヴェネツィア講和と譲歩、東地中海の制海権はオスマン優位へ。