メフメト2世
メフメト2世は15世紀のオスマンのスルタンであり、1453年のコンスタンティノープル攻略によって「征服者」と称された君主である。若年で一時退位を経験しつつも再登極後に中央集権化を加速させ、首都を旧都エディルネから征服地へ移し、軍制・財政・法の諸制度を再編した。彼の治世はオスマン帝国を地域国家から多民族・多宗教の帝国へ転換させる画期であり、先代の遺産であるブルサの王権基盤を継承しつつ、地中海・黒海・バルカンにまたがる覇権を現実のものとした。
即位と若年の治世
メフメト2世は父ムラト2世の存命中に一度スルタン位に就いたが、諸勢力の対立から退位を余儀なくされる。1451年に再登極すると、旧都エディルネ(古名アドリアノープル)の宮廷と軍を掌握し、海峡とバルカンの要衝を押さえる戦略を整えた。彼は若年時から学問と語学に通じ、地理・砲術・築城に関心を示し、後の遠征と都市経営の思想的基盤を形成した。
コンスタンティノープルの征服(1453年)
1453年、メフメト2世は大砲と包囲戦術を総動員してテオドシウス城壁を突破し、コンスタンティノープルを陥落させた。聖堂・市壁・港湾の修復を進め、諸宗教共同体の自治を認めて人口と経済の回復を図る。アヤソフィアは金曜礼拝の場となり、商人・職人を招致するための免税や財団が整備された。征服は象徴にとどまらず、黒海からエーゲ海へ連なる交易動脈を掌握する決定的一手となった。
行政・法と都の整備
メフメト2世はスルタン令(カーヌーン)を通じて官僚制・封土(ティマール)・財政の規律を明文化し、軍事・徴税・裁判の権限配分を整理した。首都では官庁街と宮殿が再編され、スークや隊商宿、宗教・慈善施設を支える寄進財産が都市の持続的運営を下支えした。宗教共同体の長を通じて信仰と日常法を自治させる枠組みも整え、多宗教社会の統治コストを抑えることに成功した。
軍事改革と火砲・海軍
常備歩兵と砲兵の比重を高めたことはメフメト2世の軍制の核心である。大口径砲を配備し、要塞・海峡の封鎖線を強化、造船と港湾施設を拡充して海軍の遠征能力を引き上げた。これにより城塞攻略と海上封鎖を組み合わせる複合作戦が可能となり、沿岸都市や島嶼に対する圧力が飛躍的に増した。
バルカンとアナトリアの拡張
メフメト2世はセルビア(1459年)、モレア(1460年)、トレビゾンド(1461年)、ボスニア(1463年)などを順次編入し、バルカンの政治地図を塗り替えた。ベオグラード攻囲(1456年)は失敗したが、要地の確保と属領化は持続的に進む。これらは先行世代のバヤジット1世・ムラト1世以来の方針を、法・財政の整備によって持続可能な形で継承し直した結果である。西欧側は1396年のニコポリスの戦い以後の脅威認識を再燃させ、長期的な対峙が常態化した。
ヴェネツィアとの戦争と地中海戦略
エーゲ海・アドリア海で商権を握るうえで、ヴェネツィアとの抗争は避けられなかった。1463年からの長期戦は島嶼・海峡・商路の支配をめぐるもので、メフメト2世は砲艦と要塞の連携で制海・制陸を両立させ、最終的に和平で優位を確保する。黒海の穀物・奴隷・毛皮、東地中海の香辛料・絹織物といった回廊が、帝都の税収と手工業を潤した。
王権の理念と文化事業
メフメト2世は征服者としての権威と学芸の保護者としての姿を併せ持った。古典学や史書の蒐集、学者・技術者の登用を通じて、帝国イデオロギーを「法と秩序の守護者」として表現した。旧来の王権を築いたオスマン=ベイの系譜や、初期の拠点であるエディルネの宮廷文化を継承しつつ、征服都市を新たな行政・商業・学術の核に作り替えた点に独自性がある。
晩年、オトラント遠征と死
晩年のメフメト2世はイタリア南部への遠征を企図し、1480年にオトラントを占領したが、翌1481年に遠征途上で崩御した。後継争いはあったものの、彼の施策は宮廷・官僚・軍の三位一体を固め、征服と統治を結び付ける帝国運営の型を後代に遺した。
主要年表
- 1444年 初即位(のち退位)
- 1451年 再登極、対外・制度改革の本格化
- 1453年 コンスタンティノープル攻略、首都機能の移転
- 1456年 ベオグラード攻囲(不成功)
- 1459–1463年 セルビア・モレア・ボスニアなど編入
- 1463–1479年 ヴェネツィアとの戦争、東地中海の優位確立
- 1480年 オトラント占領
- 1481年 崩御