ティエール
19世紀フランスの政治家ティエールは、七月王政から第三共和政にかけて活躍し、保守的な共和主義者として知られる人物である。彼は弁護士・ジャーナリストとして頭角を現し、のちに首相や大統領に相当する地位に就き、普仏戦争後の国政再建とパリ・コミューン鎮圧を主導した。また、歴史家としてもフランス革命やナポレオン時代を扱った大著を著し、19世紀フランスの政治と歴史叙述の双方に大きな影響を与えた。
生い立ちと初期の経歴
ティエールは1797年にマルセイユ近郊で生まれ、法学を学んで弁護士となった。地方での弁護士活動に限界を感じた彼はパリに出てジャーナリズムの世界に入り、政治評論や歴史記事で注目を集める。ナポレオン体制崩壊後の王政復古やフランス革命の評価をめぐる論争の中で、自由主義的な立憲体制を支持する論客として名を上げ、これが後の政界進出の基盤となった。
七月革命と七月王政での台頭
1830年、ブルボン朝を打倒した七月革命が起こると、ティエールは革命を支持し、新たに成立した七月王政の下で政権中枢に進出した。彼はルイ・フィリップ王のもとで内相や首相を務め、秩序維持と市民的自由の調和を図る政治を掲げたが、選挙権を持つ層が限定された体制は多くの国民の不満を招いた。この時期のティエールは、ブルジョワジーの利益を代弁する現実主義的政治家として位置づけられる。
第二帝政への反対と亡命
1848年革命によって七月王政が崩壊し、短命の第二共和政が成立すると、政治情勢は急速に不安定化した。やがてナポレオン1世の甥であるナポレオン3世がクーデタを起こし、第二帝政を樹立する。自由主義的立場からこの専制体制に反対したティエールは、議会外に退き、亡命や政治的周辺化の時期を経験したが、その間も歴史著作を通じてフランス政治を批判し続けた。
普仏戦争後の国家再建とコミューン鎮圧
1870年の普仏戦争で第二帝政が崩壊すると、フランスは敗戦処理と国内秩序の回復という難題に直面した。この危機の中でティエールは国民議会から行政府首班に選出され、事実上の国家元首となる。彼はドイツとの講和をまとめ、戦後賠償の支払い計画を整えつつ、国内ではパリ・コミューンの蜂起を武力で鎮圧した。強硬な弾圧は多くの犠牲を生んだが、彼にとっては所有権と秩序を守るための「必要な手段」であった。
第三共和政の成立と退陣
ティエールは戦後フランスの体制として王政復帰ではなく共和政を選択し、これが第三共和政の成立につながった。ただし彼の共和政は、急進的民主主義ではなく、保守的で漸進的な体制を志向していたため、議会内では王党派や急進共和派からの批判を同時に受けた。最終的に彼は1873年に辞任し、以後は政界の第一線を退くが、第三共和政はその後も長期にわたりフランスの政治体制として存続した。
歴史家としての業績と評価
ティエールは政治家であると同時に、著名な歴史家でもあった。彼の『フランス革命史』やナポレオン時代を扱う著作は、19世紀の読者に大きな影響を与え、フランス革命や帝政期のイメージ形成に重要な役割を果たした。これらの作品は自由主義的でありながら秩序志向の解釈を示し、のちのブルジョワ共和政を正当化する思想的基盤ともなったと評価される。一方で、パリ・コミューン弾圧の指導者として、社会主義者や急進派からは厳しく批判され続けており、その評価は今日でも賛否が分かれている。
19世紀フランス史における位置づけ
ティエールは、王政から共和政へと揺れ動くフランスの中で、立憲主義と秩序の維持を重視した「ブルジョワ共和主義」の代表的人物である。彼の歩みは、七月革命、第二共和政、第二帝政、そして第三共和政という体制変動の連続の中で、都市中産階級がいかに政治的主導権を握り、社会主義的潮流や民衆運動と対峙したかを示している。この意味でティエールの経歴は、近代フランス政治史の核心を理解する手がかりとなるのである。