ジロンド派|穏健共和を掲げた地方エリート

ジロンド派

ジロンド派は、フランス革命期に立法議会と国民公会で活動した共和主義的な政治集団である。主にボルドーを中心とするジロンド県選出の代議士が多かったことからこの名で呼ばれ、商人・法律家など地方ブルジョワの利害を代表した。彼らは王政廃止と共和政の確立を目指しつつも、急進的な社会革命には慎重で、自由主義的な政治制度と経済の自由を重視する穏健な改革派であった。

成立の背景と性格

ジロンド派の台頭は、1791年の1791年憲法にもとづく立憲王政期にさかのぼる。王権を制限したものの、依然として国王への不信が根強く、政治の主導権をめぐって諸派が競合するなかで、生まれながらの貴族よりも地方都市の有産市民を基盤とするグループがまとまりを見せた。急進派に対しては秩序維持の観点から距離をとり、王政の一定の役割を認めたフイヤン派とは異なり、彼らは早い段階から共和政への移行を志向していたが、その方法はあくまで議会中心で合法的であることを重んじた。

主要な指導者と支持基盤

ジロンド派の中心人物には、ジャーナリスト出身で対外戦争を強く主張したブリソー、雄弁で知られたヴェルニオ、行政改革に力を注いだローラン夫妻などがいる。彼らはボルドーやローヌ川流域など商工業の発達した地方都市から選出され、地方分権的な政治構想を持っていた。また、女性の権利を掲げたオランプ=ド=グージュや、その著作として知られる女性の権利宣言は、思想的に近い立場から彼らを支持した知識人の一例である。

  • 地方都市の有産市民・自由業者を主な支持基盤とした
  • 言論活動や新聞を通じて世論形成に積極的であった
  • 議会での演説や法案提出を通じて政治を主導しようとした

対外戦争と共和政の成立

ジロンド派は、革命を防衛し拡大するためにオーストリアやプロイセンとの戦争を推進した勢力として知られる。彼らは、諸外国の干渉を恐れると同時に、戦争が国内の反革命勢力をあぶり出し、国民の愛国心を高めると期待した。この路線は、亡命貴族を支援した君主国の圧力やピルニッツ宣言によって正当化され、1792年の宣戦布告と王政廃止、そして共和政樹立へとつながった。しかし戦局は当初不利に進み、王妃マリ=アントワネットへの不信も高まるなかで、彼らは軍事的失敗の責任を問われる立場にも追い込まれていった。

山岳派との対立と没落

国民公会成立後、ジロンド派は一時多数派を占めたが、パリを拠点としジャコバン=クラブを基盤とする山岳派との対立が激化した。山岳派がパリの民衆とサン=キュロットの急進的要求を背景に中央集権的な強権政治を志向したのに対し、ジロンド派は地方自治と法の支配を重視し、パリに権力が集中することを危険視した。この対立は1793年の蜂起によって決定的となり、多くのジロンド派代議士が逮捕・処刑され、地方では連邦主義的反乱が起こったが鎮圧された。こうして政治勢力としてのジロンド派は壊滅し、権力は山岳派の独裁に移っていった。

思想的意義

ジロンド派は短期間で没落したものの、その政治思想は後世に一定の影響を残した。彼らは個人の自由・所有権・言論の自由を重視する自由主義的共和主義を掲げ、過度な平等化や経済統制には批判的であった。また、国家主権を認めつつも地方の自立性を尊重しようとする姿勢は、中央集権国家像とは異なる共和政のあり方を示している。戦争と共和制の問題や、立憲政治の限界をめぐる議論の過程で、ジロンド派がたどった軌跡は、フランス革命が内包した多様な可能性と緊張関係を理解するうえで重要な手がかりを与えている。