「知覚の束」ヒューム

知覚の束 ヒューム

ヒュームの経験論の本質をなす言葉。客観的実在としての自我を否定し、自我の存在は習慣に基づく単なる主観的な「感じ」であることを表現した。観念の外に実在する物体の存在を否定したバークリーの思想を推し進め、そのバークリーが実体と認めた精神や自我もまた次々に継起する知覚の集合にすぎないとした。人はある物体を知覚する経験を繰り返すと、その物体についての主観的な印象を誤って客観化してしまう。繰り返し様々な観念が現れると、その担い手として実体的な精神を想定してしまう。また、因果法則も客観的な原理ではなく、ふたつの観念の習慣的な経験から生まれる主観的な印象であると説いた。

『人性論』からの引用

(自我とは)想像を絶する速さでたがいに継起し、絶え間のない変化と動きのただなかにある、たがいに異なる、知覚の束あるいは集まり

デカルト的自我への反論

当時、自我は我思うゆえにわれあり、としたデカルトの自我の見解が多く支持されていた。しかし、ヒュームの自我はそれとは異なり、自我に対応する単一の印象は存在せず、単なる知覚が集まっただけのものにすぎない、とした。ヒュームにとって自我や人格は確定されたものはなりえず、デカルトのそれにくらべて不安定なものであった。

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