パドリ戦争
パドリ戦争は、19世紀前半のスマトラ島西部ミナンカバウ高地で起こったイスラーム改革派と伝統的首長層との内戦に、オランダ植民地軍が介入して展開した戦争である。おおむね1821年から1837年にかけて続き、イスラーム法に基づく社会改革を掲げるパドリ派と、慣習法アダットを守ろうとする在地支配層との対立が根底にあり、その過程でオランダの支配が現在のインドネシア西スマトラ内陸部にまで及ぶ契機となった。宗教改革運動・内戦・植民地戦争という三つの性格を併せ持つ点に、この戦争の歴史的特徴がある。
ミナンカバウ社会と戦争の背景
パドリ戦争の舞台となったミナンカバウ地域は、イスラームを受容しながらも母系制やアダットと呼ばれる慣習法が強く残る社会であった。18世紀末から19世紀初頭にかけて、メッカ巡礼を行った学者や商人たちがワッハーブ派的な厳格なイスラーム解釈を持ち帰り、賭博・喫煙・阿片吸引・闘鶏などの慣行を「不信仰」として批判した。この改革派がパドリ(ペドリ)と呼ばれるようになり、彼らはシャリーアに基づく社会浄化を求めて在地首長層と対立を深めていった。こうした宗教改革の動きは、ヨーロッパ列強による東南アジアの植民地化が進むなかで、イスラームを拠り所として共同体を防衛しようとする反応でもあった。
内戦からオランダとの武力衝突へ
当初、対立はミナンカバウ内部の内戦として進行した。パドリ派は高地の村落を拠点にアダットの廃止とイスラーム法の徹底を迫り、反対する首長を攻撃したのに対し、伝統的首長層は自らの権威と慣習秩序を守ろうとした。やがて首長側の一部は、スマトラ沿岸部を支配していたオランダ植民地政庁に援軍を要請し、これを機に紛争はオランダ植民地軍とパドリ派との戦争へと転化していった。スマトラ西岸はすでにオランダ領東インドの一部として編入されつつあり、オランダにとって内陸部への介入は、香辛料・コーヒーなどの商品作物地帯を掌握する好機であった。
戦争の展開と主要な局面
パドリ戦争は、概ね次のような局面をたどったとされる。
- 19世紀初頭:メッカ帰りのウラマーたちが改革運動を開始し、パドリ派の勢力がミナンカバウ高地で拡大する。
- 1810年代:パドリ派とアダット派の内戦が激化し、首長層の一部はオランダに軍事的支援を求める。
- 1821年:オランダが正式に出兵し、パドリ派拠点への軍事行動を開始することで、在地内戦は植民地戦争の段階に移行する。
- 1820〜30年代:ジャワ島など他地域での反乱や財政負担もあってオランダの軍事行動は一進一退となるが、次第に要塞・村落を包囲・降伏させる形でパドリ派は追い詰められていく。
- 1837年:指導者トゥアンク・イマム・ボンジョルが逮捕・流刑に処され、主要な抵抗が終息したとみなされる。
こうして戦争はオランダ側の勝利に終わり、ミナンカバウ高地は西スマトラ沿岸部とともにインドネシアにおけるオランダ植民地支配の一環として組み込まれていった。この過程は、同じく19世紀インドで植民地支配が強化されていったインド帝国の形成と軌を一にする動きとして理解されることが多い。
宗教改革運動としてのパドリ派
パドリ戦争の特徴の一つは、単なる反乱ではなくイスラーム改革運動としての性格を濃厚に持っていた点である。パドリ派は、聖典とハディースに基づく純粋な信仰を掲げ、聖地メッカで学んだ知識をもとに、酒・賭博・闘鶏などを禁止し、礼拝や断食の厳格な履行を要求した。彼らにとってアダットは、イスラームに反する「不信仰」の慣習であり、これを廃絶することが宗教改革であった。他方、村落社会を統合してきた首長層にとってアダットは共同体の秩序そのものであり、これを守ることが自らの権威の根拠でもあったため、両者の対立は妥協しがたい宗教・社会秩序の衝突となった。
戦争の結果とミナンカバウ社会への影響
パドリ戦争後、ミナンカバウ社会ではアダットとイスラーム法の折衷を示すスローガン「アダットはシャリーアに基づき、シャリーアはコーランに基づく」といった表現で要約される妥協が形成されていったとされる。これは、パドリ派の改革思想を一定程度取り入れつつ、母系制や村落共同体の枠組みを残そうとする動きであり、宗教改革と伝統の衝突が結果的に新たな社会秩序を生み出したことを意味する。また、オランダは戦争を通じて西スマトラ内陸部に道路・要塞を建設し、農民にコーヒー栽培を強制するなど植民地経済への組み込みを進めた。このような動きは、のちにインドでセポイの乱を経て植民地支配が再編される過程や、ムガル王権の崩壊からムガル帝国の滅亡へと至る流れとも比較されうる、19世紀アジア全体の帝国主義的再編の一部であった。
19世紀アジアにおける植民地支配強化との関連
パドリ戦争は、19世紀におけるヨーロッパ列強のアジア支配強化という広い文脈のなかで理解されるべきである。西スマトラでの戦争とオランダ支配の拡大は、インドでのイギリス東インド会社解散とその後のインド統治法制定によるイギリス王冠直轄統治への移行と同様に、内発的な紛争や宗教運動を契機として植民地権力が制度的支配を強めていく典型例といえる。イスラーム改革や反乱は、必ずしも一義的な「反植民地運動」にとどまらず、在地社会内部の権力関係と宗教的再編を伴いながら進展し、その結果としてヨーロッパ帝国主義の支配構造を逆説的に補強する側面も持っていたのである。