インド帝国
インド帝国は、1858年にイギリス東インド会社支配が終わり、インド統治がイギリス本国の王権に移管されたのち、1877年にヴィクトリア女王が「インド皇帝」の称号を得て成立したとみなされる植民地体制である。イギリス本国の一部であると同時に、広大な植民地として統治され、多数の住民と多様な宗教・言語を抱えた統合体であり、20世紀前半に至るまでイギリス帝国の中核となった。
成立の背景
インド帝国成立の直接の契機は、1857年に起こったセポイの乱(インド大反乱)である。この反乱により、インド支配を担ってきたイギリス東インド会社の統治能力に疑問が生じ、翌1858年のインド統治法によって会社統治が廃止され、インドはイギリス王権の直轄領となった。その後、1877年にヴィクトリア女王が「インド皇帝」を称し、象徴的にインド帝国としての枠組みが整えられた。
この新体制は、かつてインドを支配したムガル帝国の皇帝権威を名目上継承しつつ、実質的にはイギリスの近代官僚制と軍事力を背景にした植民地支配であった。イギリス本国にとってインドは「帝国の宝石」と呼ばれ、アジア政策や対ロシア外交における要衝として位置付けられた。
統治体制と行政機構
インド帝国の頂点には、ロンドンにいる国王(インド皇帝)が位置し、インド現地ではインド総督がその代理として統治を行った。総督は広範な行政・軍事権限を持ち、官僚組織であるインド文官(ICS)が中央および州レベルの行政を担った。この官僚団の多くはイギリス人によって占められ、現地人エリートは限定的に参入を許されるにとどまった。
行政区分としては、ベンガル、ボンベイ、マドラスなどのプレジデンシーと、パンジャーブやビルマなどの州が設けられ、それぞれに総督や州長官が置かれた。立法面では評議会が設置され、徐々にインド人メンバーも加えられたが、決定権は依然としてイギリス側に集中しており、代表制はきわめて限定的であった。
諸侯国と間接統治
インド帝国の特徴の1つは、多数の「ネイティヴ・ステート」と呼ばれる藩王国を包含していた点である。これらの諸侯国は形式上は領主の支配が続き、イギリスは保護条約を通じて外交・軍事・財政に強い影響力を行使した。藩王たちはイギリス皇帝への忠誠を誓い、戴冠式などの儀礼に招かれることで帝国秩序の一部に組み込まれていった。
この間接統治は、広大な領域を比較的少人数のイギリス人官僚で支配するための重要な仕組みであった。同時に、諸侯国の存在は地方社会における伝統権威を温存し、近代的な中央集権国家の形成を遅らせる要因ともなった。
経済構造と植民地支配
インド帝国の経済は、イギリス本国の産業資本主義と密接に結びついていた。綿花・ジュート・茶・アヘンなどの一次産品が輸出される一方で、マンチェスターなどからの綿製品をはじめとする工業製品が大量に輸入された。この構造は、19世紀のイギリス産業革命と連動し、インドを原料供給地かつ製品市場として位置付けるものであった。
鉄道・港湾・通信網の整備は、一方ではインド社会の近代化に資するインフラ投資であり、他方では農産物や鉱産資源を迅速に輸出し、軍隊を移動させるための植民地的インフラであった。重い地税負担や商品作物の強制的な拡大は、農村社会を不安定化させ、飢饉を拡大させる一因ともなった。
社会・文化への影響
インド帝国のもとで、英語教育や西洋的法制度が導入され、都市の知識人層のあいだに新たな近代的価値観が広まった。彼らはイギリスの政治思想や自由主義に触れる一方で、現実の植民地支配との矛盾を痛感し、批判的なナショナリズムを育んでいった。キリスト教宣教師の活動や社会改革運動も進み、サティーの禁止などヒンドゥー社会の慣習にも変化が生じた。
同時に、インド各地ではヒンドゥー教、イスラーム、シク教など多様な宗教共同体がそれぞれのアイデンティティを強め、宗教間の緊張も高まっていった。これらの動きは、のちのヒンドゥー・ムスリム対立や分離独立運動につながり、イギリス帝国支配の終焉過程にも影響を与えた。
ナショナリズムの高揚とインド帝国の終焉
インド帝国期には、1885年にインド国民会議が結成され、当初は穏健な立憲改革要求から出発したが、次第に自治要求、完全独立要求へと主張を強めていった。20世紀に入ると、ガンディーによる非暴力・不服従運動が全国的な大衆運動となり、塩の行進などを通じて植民地支配への国際的批判も高まった。
第1次世界大戦・第2次世界大戦を通じてインドから多くの兵士と資源が動員される中、イギリスは徐々に譲歩を迫られ、自治拡大や統治制度改革が試みられた。最終的に、1947年にインド独立とインド・パキスタン分離が実現し、ここに王冠のもとでのインド帝国は終焉したのである。