INF全廃条約|米・ソ連との間で結ばれた軍縮条約

INF全廃条約

INF全廃条約(中距離核戦力全廃条約)は、1987年12月8日にアメリカ合衆国とソビエト連邦の間で署名された、画期的な軍縮条約である。正式名称を「中射程および短射程ミサイルの廃棄に関するアメリカ合衆国とソビエト社会主義共和国連邦の間の条約」という。この条約は、射程500キロメートルから5500キロメートルの地上発射型弾道ミサイルおよび巡航ミサイルを、核弾頭の有無にかかわらず全面的に廃棄することを定めたものであった。従来の軍備管理条約が兵器の上限を設定する「軍備管理」にとどまっていたのに対し、特定の種類の兵器を完全に除去する「軍縮」を実現した史上初の条約として、国際政治史において極めて重要な意義を持つ。当時の米大統領ロナルド・レーガンとソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフによって署名され、東西冷戦の終結を象徴する出来事の一つとなった。しかし、後の国際情勢の変化や条約違反の非難の応酬により、2019年8月に失効した。

条約締結に至る歴史的背景

1970年代後半、ヨーロッパにおける核戦力のバランスは大きく揺らいでいた。ソ連は老朽化した中距離ミサイルSS-4やSS-5を更新するため、移動可能で多弾頭化された新型の中距離弾道ミサイル「SS-20(セイバー)」の配備を開始した。SS-20は3つの核弾頭を搭載可能であり、高い即応性と命中精度を持っていたため、西ヨーロッパ諸国にとって深刻な脅威となった。これに対し、北大西洋条約機構(NATO)は1979年に「二重決定」を採択した。これは、ソ連との軍縮交渉を優先しつつ、もし交渉が不調に終わった場合には、アメリカの新型中距離ミサイル「パーシングII」および地上発射型巡航ミサイル(GLCM)「グリフォン」を西欧に配備するという方針である。この決定は「ユーロミサイル危機」と呼ばれる緊張状態を引き起こし、ヨーロッパ各地で大規模な反核運動が展開される要因となった。

交渉の経緯と政治的力学

1981年からジュネーブで開始されたINF交渉は、当初極めて難航した。アメリカ側は、米ソ双方が中距離ミサイルを全廃する「ゼロ・オプション」を提案したが、当時SS-20ですでに優位に立っていたソ連側はこれを拒否し、ヨーロッパの英仏の核戦力も含めた計算を主張した。交渉は一時中断されたが、1985年にゴルバチョフがソ連の指導者となると状況は変化した。ゴルバチョフは国内の経済改革(ペレストロイカ)を推進するため、軍事費の削減と西側との関係改善を模索していた。

1986年10月のアイスランド・レイキャビクにおける米ソ首脳会談では、合意寸前まで達したものの、アメリカの戦略防衛構想(SDI)を巡る対立で決裂した。しかし、この会談で双方が大幅な核削減の可能性を確認したことは、後の交渉妥結への土台となった。その後、ソ連はSDIとINF交渉を切り離すことに同意し、さらに短距離INF(射程500〜1000キロメートル)も廃棄対象に含める「ダブル・ゼロ・オプション」を受け入れた。これにより、アジア地域に配備されたSS-20も含めた世界規模での全廃が可能となり、条約署名への道が開かれたのである。

条約の主な内容と検証体制

INF全廃条約の核心は、特定のカテゴリーに属する兵器システムの完全な物理的破壊と、それを担保するための厳格な検証制度にある。

  • 廃棄対象:射程500キロメートルから5500キロメートルの地上発射型弾道ミサイルおよび巡航ミサイル。これにはミサイル本体だけでなく、発射機、関連支援機材も含まれる。
  • 非対称な削減:条約に基づき、アメリカは約846基、ソ連は約1846基のミサイルを廃棄することとなった。ソ連側がより多くの兵器を廃棄するという非対称性は、ソ連側の譲歩として注目された。
  • 検証制度:条約の遵守を確認するため、詳細なデータ交換に加え、現地査察(オンサイト・インスペクション)が導入された。これには、廃棄プロセスの目視確認や、ミサイル製造工場への常駐監視などが含まれる。「信頼せよ、されど検証せよ(Trust, but verify)」というレーガンの言葉は、この厳格な検証体制を象徴している。

廃棄の実行と冷戦後の展開

条約発効後、両国は着実にミサイルの廃棄を進めた。ミサイルを圧壊させたり、爆破したりする様子はメディアを通じて世界に公開され、軍縮の進展を視覚的に印象付けた。1991年5月までに、条約で規定された全てのミサイルの廃棄が完了した。このプロセスは、米ソ間の信頼醸成に大きく寄与し、後の戦略兵器削減条約(START)などの核軍縮プロセスを加速させる呼び水となった。また、現地査察の実施を通じて、両国の軍事専門家や外交官が直接交流する機会が増え、相互理解が深まったことも重要な副次的効果であった。条約は無期限とされていたが、検証活動自体は2001年に終了した。

条約の動揺と失効のプロセス

21世紀に入ると、INF全廃条約を取り巻く環境は変化した。アメリカが2002年に弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約から脱退したことに対し、ロシア(ソ連の継承国)は懸念を表明した。また、条約に参加していない中国やイラン、北朝鮮などが中距離ミサイルの開発・配備を進めている現実に対し、米露のみが手足を縛られている現状への不満がロシア側から漏れるようになった。特にロシアは、NATOの東方拡大やミサイル防衛システムの欧州配備を自国の安全保障への脅威と捉えていた。

決定的な対立点は、ロシアが開発した新型巡航ミサイル「9M729(NATOコードネーム:SSC-8)」であった。アメリカは、このミサイルが条約で禁止された射程を有しているとして、2010年代半ばから繰り返し条約違反を指摘した。ロシア側はこれを否定し、逆にアメリカがルーマニアやポーランドに配備したミサイル防衛システム「イージス・アショア」の垂直発射機が、攻撃用巡航ミサイル「トマホーク」を発射可能であるとして、アメリカ側の条約違反を主張した。双方の溝は埋まらず、2019年2月、アメリカのトランプ政権は条約の履行停止を通告し、離脱を表明した。これを受けてロシアも履行停止を宣言し、同年8月2日に条約は正式に失効した。

ポストINF時代の安全保障

INF全廃条約の失効は、核兵器管理体制の空洞化を招くものとして国際社会に懸念を与えた。条約の縛りがなくなったことで、アメリカとロシアは再び中距離ミサイルの開発や配備が可能となった。アメリカは失効直後に地上発射型巡航ミサイルの発射実験を行い、アジア太平洋地域への配備も視野に入れていることを示唆している。これに対し、中国やロシアも対抗措置をとる構えを見せており、新たな軍拡競争の可能性が指摘されている。欧州やアジアにおける中距離ミサイルの配備問題は、地域の安全保障バランスを複雑化させる要因となっている。現代のミサイル技術は極超音速滑空兵器(HGV)など、条約締結時には存在しなかった新たな領域へと進化しており、これらを含めた新しい軍備管理の枠組みをどのように構築するかが、国際社会の喫緊の課題となっている。