人間工学
人間工学とは、人間の身体的・心理的な特性を理解し、道具や機械、作業環境、組織のしくみを人に合うように設計するための学問である。英語ではergonomicsまたはhuman factorsと呼ばれる。国際人間工学会(IEA)は、人とシステムの相互作用を理解し、人の健康と生産性を同時に高めることを目的とする分野と定義している。椅子の高さ、操作パネルの配置、シフト勤務の組み方まで、対象は幅広い。
語源と成立の歴史
ergonomicsという語は、ギリシャ語で「仕事」を意味するergonと「法則」を意味するnomosを組み合わせた造語である。1857年にポーランドの学者ヴォイチェフ・ヤストシェンボフスキが論文で用いたのが最初とされる。ただし、学問として体系化が進んだのは20世紀に入ってからであった。フレデリック・テイラーが1911年に発表した科学的管理法や、ギルブレス夫妻の動作研究は、作業を測定して効率を上げるという発想を広めた。とはいえ、これらは人を機械に合わせる考え方であり、現在の人間工学とは方向が逆である。
転機は第二次世界大戦である。航空機の計器の読み違いによる事故が相次ぎ、操縦士の訓練だけでは防げないことが明らかになった。機器の側を人間に合わせるべきだという認識が生まれ、1949年に英国でマレルらがErgonomics Research Societyを設立した。1959年にはIEAが発足している。
日本では、心理学者の田中寛一が1921年に『人間工学』を著しており、用語自体は比較的早くから存在した。学会組織としては1964年に日本人間工学会が設立され、自動車や家電、鉄道などの産業界と結びつきながら発展してきた。
三つの領域
IEAは人間工学の専門領域を大きく三つに分けている。筋骨格系や姿勢、作業負担を扱う身体的領域、知覚・記憶・意思決定などを扱う認知的領域、勤務体制やチーム作業を扱う組織的領域である。身体的領域は生理学や解剖学、認知的領域は心理学と深く関わる。組織的領域はマクロ人間工学とも呼ばれ、交代勤務の設計やテレワークの運用ルールなどが典型的な対象になる。
人体寸法をどう設計に使うか
製品設計の土台となるのが人体計測である。身長、座高、肘の高さ、手の届く範囲といったデータを集め、統計的に扱う。基本的な計測項目はISO 7250で定められ、日本ではこれに対応するJIS Z 8500がある。
設計でよく使われるのは、5パーセンタイル値と95パーセンタイル値である。たとえば非常停止ボタンのように「誰でも手が届かなければならない」ものは、腕の短い人に合わせて5パーセンタイル値を基準にする。逆に、ドアの高さや足元の空間など「誰もがぶつからずに通れる」ことが必要なものは、体の大きい人に合わせて95パーセンタイル値を使う。平均値で設計すると、実際には半数近くの人に合わないという点は見落とされやすい。
体格差を吸収する手段として、調整機構を設けるという方法もある。事務用椅子の座面昇降はその代表である。日本の事務机の高さは1971年のJIS改正で74cmから70cmに引き下げられたが、それでも小柄な人には高すぎるケースがあり、椅子と足置きで補う運用が一般的になっている。
主な国際規格と国内規格
人間工学に関わる規格は数多い。国際標準化機構(ISO)では技術委員会TC 159が担当し、多くは日本産業規格にも取り込まれている。代表的なものを次に示す。
| 規格番号 | 名称・内容 | 対応する主な場面 |
|---|---|---|
| ISO 6385 | 作業システム設計の人間工学原則 | 工場ライン、事務所の全体設計 |
| ISO 9241シリーズ | 人とシステムのインタラクション | ソフトウェア画面、ディスプレイ作業 |
| ISO 11228シリーズ | 手作業による持ち上げ・押し引き・反復作業 | 物流、組立作業 |
| ISO 7250 / JIS Z 8500 | 人体計測の基本項目 | 製品の寸法設計 |
ISO 9241-11はユーザビリティを「有効さ・効率・満足度」の三要素で定義しており、ウェブサイトや業務システムの評価でも広く参照される。
製造現場での使われ方
工場で最も成果が見えやすいのは作業台の高さ調整である。目安として、精密な組立作業は肘の高さより5〜10cm上、一般的な軽作業は肘の高さより5〜10cm下、力を込める重作業は10〜20cm下が適するとされる。グランジャンが整理したこの基準は、現在も設備設計の出発点になっている。
持ち上げ作業については、米国国立労働安全衛生研究所(NIOSH)が1991年に改訂した持ち上げ式が知られている。理想条件での推奨重量限界を23kgとし、そこから水平距離、持ち上げ高さ、ひねり角度、頻度などの係数を掛けて許容重量を算出する。日本の厚生労働省の「職場における腰痛予防対策指針」でも、18歳以上の男性が人力で扱う重量は体重のおおむね40%以下とする目安が示されている。
導入コストと現場の判断
実務では、電動昇降式の作業台は1台あたり十数万円から数十万円かかり、ライン全体を入れ替えるのは簡単ではない。そのため、まず踏み台や治具の高さ変更、部品棚の配置換えといった数千円から数万円で済む対策から着手し、効果を測ってから設備投資に進む企業が多い。腰痛による休業は労働災害として扱われ、休業4日以上の業務上疾病のうち約6割を腰痛が占めるという統計もあるため、費用対効果の説明材料としても使いやすい。
情報機器作業と認知的負担
パソコン作業の普及に伴い、厚生労働省は2002年に「VDT作業における労働衛生管理のためのガイドライン」を策定した。2019年にはタブレットやスマートフォンの利用を踏まえて「情報機器作業における労働衛生管理のためのガイドライン」へ改められている。そこでは、ディスプレイとの視距離をおおむね40cm以上確保すること、連続作業は1時間を超えないようにし、次の作業までに10〜15分の作業休止時間を設けることなどが示された。
画面の文字サイズや配色、操作手順の分かりやすさは認知的領域の課題である。表示が紛らわしい操作盤はヒューマンエラーを誘発し、品質不良や事故の原因となる。品質管理の現場で「ポカヨケ」と呼ばれる誤り防止の工夫も、人の注意力には限界があるという人間工学的な前提に立った手法といえる。
労働安全衛生との関係
日本の労働安全衛生法は、事業者に快適な職場環境の形成を努力義務として課している。具体的な数値基準が法令に直接書かれていない部分も多く、各種ガイドラインやJIS、ISOの考え方がその解釈を補っている。欧州では機械指令の中で人間工学的原則への適合が求められており、輸出向けの機械を設計する日本企業にとっては、規格対応が取引条件の一部になることもある。働き方改革や高年齢労働者の増加を背景に、作業負担を数値で評価し、設計段階から改善を組み込む取り組みは今後も各業界で続いていくと考えられる。
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