太田薫|労働運動のリーダーとして春闘を確立した功労者

太田薫

太田薫(おおたかおる)は、日本の労働運動家であり、日本労働組合総評議会(総評)の第5代議長を務めた人物である。1912年1月1日に岡山県で生まれ、戦後の高度経済成長期において「春闘」という賃金交渉方式を確立・定着させた功績で知られる。太田薫は、事務局長の岩井章とともに「太田-岩井ライン」と呼ばれる強力な指導体制を築き、当時の日本社会における労働者の権利向上と経済的地位の確立に決定的な役割を果たした。その豪快な性格と力強い演説から「太田ラッパ」という愛称で親しまれ、単なる労働組合のリーダーに留まらず、政界や社会全体に対しても強い影響力を持つ巨星として君臨した。

エリート技術者から労働運動の旗手へ

太田薫は、旧制第六高等学校を経て大阪帝国大学(現・大阪大学)工学部応用化学科を卒業した理系のエリートであった。卒業後は大日本特許肥料を経て、宇部窒素工業(現・UBE)に入社し、技術者として順調なキャリアを歩んでいた。しかし、第二次世界大戦後の1946年、会社側から従業員組合の結成を要請されたことを機に、初代労働組合長に就任する。当初は会社側との協調を期待されていたが、太田薫は労働者の現実に直面する中で急速に闘争的な姿勢を強め、企業エリートとしての将来を捨てて労働運動に身を投じる決断を下した。1950年には合成化学産業労働組合連合(合化労連)を結成し、中央執行委員長として全国的な活動を展開し始めた。

「春闘」方式の創出と経済闘争の転換

太田薫の最大の業績は、現在も日本の労働慣行として残る「春闘」を創出したことである。それまでの労働運動は、個別の企業ごとにバラバラに交渉を行う形が一般的であったが、太田薫は「みんなで渡れば怖くない」という発想のもと、複数の産業が足並みを揃えて一斉に賃上げ交渉を行う方式を提唱した。これは、個々の組合の弱さを組織的な連帯で補い、資本家側に対して強力な圧力をかける画期的な戦術であった。太田薫は、政治的なイデオロギー闘争に偏りがちだった当時の運動を、労働者の生活に直結する「経済闘争」へとシフトさせ、実利を勝ち取るスタイルを確立した。この成果により、日本の労働者は高度成長の果実を享受することが可能となったのである。

「太田ラッパ」の真髄と岩井章との信頼関係

総評内での太田薫は、官公労出身の岩井章と絶妙なコンビネーションを見せた。理路整然と戦略を練る岩井に対し、太田薫は大衆の心を掴むアジテーションを担当し、そのダミ声でまくしたてる熱狂的な演説は、多くの組合員を鼓舞した。彼が「太田ラッパ」と呼ばれたのは、その声の大きさだけでなく、労働者の先頭に立って進軍の合図を鳴らし続ける姿に由来している。太田薫は、日本共産党の過激な介入を排除しつつ、日本社会党を支持基盤とする穏健かつ強力な左派勢力を維持した。彼の指導下で総評は会員数450万人を超える巨大組織へと成長し、政府にとっても無視できない政治的圧力団体となった。

池田勇人とのトップ会談と三井三池闘争

太田薫の指導力が最も試されたのは、1960年の三井三池闘争と、それに続く1964年の池田・太田会談である。「総資本対総労働の決戦」と呼ばれた三池争議において、太田薫は現地で労働者を支援し続け、労働運動の象徴的な戦いとして歴史に刻んだ。また、1964年の春闘では当時の内閣総理大臣である池田勇人とのトップ会談を実現させた。この会談において、太田薫は日本の賃金を欧米並みに引き上げることを約束させ、国家レベルでの賃金決定メカニズムに関与することに成功した。これは労働組合の代表が、国家の最高責任者と対等の立場で経済政策を議論した画期的な出来事であり、太田薫の政治的地位を不動のものとした。

20世紀の思想的背景と国際的評価

太田薫が活躍した時代は、世界的に思想の転換期でもあった。フランスではサルトルが実存主義を唱え、個人の自由と社会参加を説いていたが、太田薫の行動主義もまた、既成の秩序に抗い自らの手で運命を切り拓くという点において、同時代の精神と共鳴していた。また、既存の価値観を破壊し新たな道を示す強靭な意志という側面では、ニーチェの超人思想を想起させる力強さがあった。太田薫の功績は国際的にも高く評価され、1965年にはソビエト連邦からレーニン平和賞を授与されている。彼は、短距離走者のボルトが記録を塗り替えるかのような爆発的なエネルギーをもって、戦後日本の社会構造を劇的に変化させたのである。

太田薫の略歴一覧

主な出来事
1912年 岡山県にて誕生。
1935年 大阪帝国大学卒業後、大日本特許肥料に入社。
1939年 宇部窒素工業(現・UBE)に移籍。
1946年 宇部窒素労働組合長に就任、労働運動へ転身。
1950年 合成化学産業労働組合連合(合化労連)を結成。
1955年 総評副議長に就任、第1回「春闘」を開始。
1958年 総評議長に就任(1966年まで)。
1964年 池田勇人首相とトップ会談を行い、賃上げ合意。
1965年 レーニン平和賞を受賞。
1998年 9月24日、死去。享年86歳。

主な役職と関連組織

  • 日本労働組合総評議会(総評)議長
  • 合成化学産業労働組合連合(合化労連)委員長
  • 日本社会党支持基盤の強化
  • 社会主義協会への参加
  • 中央労働委員会委員
  • 日本労働運動史の最高指導者

思想的影響と対抗勢力

太田薫の活動は、常に強い対抗勢力との緊張感の中にあった。彼は、職場における党勢拡大を狙う日本共産党に対しては一貫して批判的な立場を取り、民主的な労働組合主義を貫こうとした。一方で、資本家側による合理化攻撃に対しては、一歩も引かない強硬姿勢を示し、必要であれば大規模なストライキを辞さなかった。彼の残した「労働者がステーキを食える世の中にしなければならない」という言葉は、単なる経済的な豊かさだけでなく、労働者の尊厳と幸福を追求し続けた太田薫の信念を象徴している。晩年まで、彼は日本の行く末を憂い、労働運動の変質に対して厳しい警告を発し続けた論客でもあった。