王希天|震災下の虐殺に遭った中国人労働者の指導者

王希天

王希天(おう きてん、1896年 – 1923年)は、大正時代に日本で活動した中国人の社会運動家であり、労働運動の指導者である。吉林省出身の彼は、日本への留学中に中国人労働者の生活改善と権利擁護のために奔走したが、1923年の関東大震災の混乱の中で日本軍によって秘密裏に殺害された(王希天事件)。彼の死は、当時の日中外交問題に発展しただけでなく、後世において中日友好と反戦の象徴として記憶されている。当時の王希天は、留学生という立場を超えて、国境を越えた労働者の連帯を組織しようとした先駆的な人物であった。

生い立ちと日本への留学

王希天は1896年、清朝末期の吉林省長春に生まれた。幼少期から聡明で知られ、地元の学校を卒業した後、1914年に日本へ渡った。彼は東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学し、教育学を学んでいた。この時期の日本には、清朝打倒を目指した孫文や、近代文学の礎を築いた魯迅、後に新中国の指導者となる周恩来など、多くの中国人留学生が集まっており、新しい思想や学問が活発に議論されていた。王希天もこうした知的刺激の中で、次第に社会正義や弱者救済の道へと関心を向けていくことになる。

中国人労働者の組織化と活動

1910年代後半から1920年代にかけて、第一次世界大戦後の好景気とその後の不況の影響もあり、日本国内には多くの中国人労働者が流入していた。しかし、彼らの多くは言語の壁や差別、そして低賃金での過酷な労働環境に苦しんでいた。王希天は彼らの窮状を目の当たりにし、留学生としての学業を半ば放棄して、労働者の支援活動に没頭するようになった。彼は「中華労働同胞共済会」を組織し、労働者への教育活動や法律相談、生活困窮者への援助を行った。王希天の活動は、単なる慈善事業ではなく、日本の労働運動とも接点を持つものであった。当時、日本国内で社会主義思想を広めていた幸徳秋水らの系譜を継ぐ運動家たちとも交流があり、国家の枠を超えた階級的連帯を模索していた。

関東大震災と殺害の経緯

1923年9月1日、関東大震災が発生すると、東京は未曾有の混乱に陥った。その中で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「中国人が暴動を起こしている」といった根拠のない流言飛語が拡散し、軍や警察、そして市民による自警団の手で多くの外国人が殺害された。王希天は震災直後、被災した中国人労働者の安否を確認し、救護するために大島や亀戸付近を回っていた。しかし、9月9日、彼は軍によって拘束され、習志野の収容所へ送られる途中で行方不明となった。実際には、江東区の逆井橋付近で、軍の手によって斬殺されたことが後の調査で明らかになっている。同時期には、無政府主義者の大杉栄や伊藤野枝も憲兵隊に殺害されるなど、混乱に乗じた社会運動家への弾圧が苛烈を極めていた。

事件の背景と当時の社会状況

王希天が標的となった背景には、彼の労働運動が当時の当局にとって「危険思想」とみなされていたことが挙げられる。震災以前から警察は彼の動向を厳重に監視しており、混乱を口実として組織の指導者を排除する意図があったと推測される。震災時の虐殺は、単なる集団パニックの結果ではなく、国家権力による計画的な側面を含んでいたことが、近年の研究でも指摘されている。

事件の隠蔽と外交的影響

日本政府は当初、王希天の殺害を徹底して隠蔽しようとした。中国側からの安否照会に対しても「行方不明」との回答を繰り返したが、事件を目撃した兵士の証言や、生存した労働者たちの訴えにより次第に真相が露呈した。中国国内では抗議運動が巻き起こり、蒋介石率いる国民党なども日本政府を強く非難した。この事件は、当時の日中関係を冷え込ませる一因となり、日本に対する不信感を決定づける歴史的事件となった。王希天の死は、留学生仲間や日本の知識人層にも大きな衝撃を与え、暴力による言論封殺の恐ろしさを刻み込むこととなった。

歴史的評価と追悼

戦後、王希天の業績と悲劇は、中日両国の友好団体や歴史家によって再評価されるようになった。中国では、異国の地で同胞のために命を捧げた「革命烈士」として敬われ、後の指導者である毛沢東もその精神を高く評価した。日本国内においても、事件の現場付近には追悼碑が建立されており、毎年震災の記念日には追悼式が行われている。王希天の生涯は、ナショナリズムが激化する時代にあって、人間としての尊厳と平等を求めて闘った証として、現代においても重要な問いを投げかけている。

王希天の基本情報

項目 内容
生年月日 1896年
没年月日 1923年9月9日(満27歳没)
出身地 中国・吉林省長春
出身校 東京高等師範学校
主な役職 中華労働同胞共済会 会長
関連事件 関東大震災、王希天事件