絵踏|聖像を踏み信仰を試す江戸の摘発儀式

絵踏

絵踏(えぶみ)とは、日本の江戸時代において江戸幕府がキリスト教の禁教政策を徹底するために実施した、宗教的な検閲および思想統制の手段である。キリストや聖母マリアを象った銅板や木版などの「踏絵」を人々に足で踏ませることで、その人物がキリスト教の信者であるか否かを確認し、同時に棄教の証拠とした。この制度は単なる個人の信仰調査に留まらず、日本全国の民衆を特定の寺院に所属させる寺請制度と密接に結びつき、幕府の統治体制を支える社会基盤の一部となった。特にキリスト教徒が多かった長崎や九州地方では、毎年の年中行事として定着し、幕末に廃止されるまで長期間にわたって続けられた。

絵踏の導入と歴史的背景

徳川幕府によるキリスト教弾圧は、1612年(慶長17年)の禁教令以降、段階的に強化されていった。初期の弾圧は主に宣教師の追放や公開処刑といった物理的な排除であったが、信者が地下に潜伏して信仰を維持したため、より内面的な信仰を暴き出す手法が求められた。絵踏が組織的な制度として確立されたのは、1637年に発生した島原の乱が直接的な契機である。乱の鎮圧後、幕府はキリシタンの根絶を最優先課題とし、寛永年間の末期から全国各地で実施されるようになった。これには、オランダ人医師の記録などから、当初は棄教した者への確認作業として行われていたものが、次第に全住民を対象とする義務的な儀式へと変容していった過程が見て取れる。

踏絵の材質と意匠の変遷

絵踏に用いられた「踏絵」は、当初は紙に描かれたものや、教会から没収された木製のメダイユなどが使われていた。しかし、多人数が踏むことで損耗が激しかったため、耐久性の高い金属製の踏絵が新たに制作された。1669年(寛文9年)には、長崎の鋳物師である萩原祐佐によって真鍮製の踏絵が20枚制作され、これが「長崎踏絵」として広く知られるようになった。意匠には、十字架にかけられたキリスト(エッチ・ホモ)や、幼子イエスを抱く聖母(ピエタ)などが精巧に彫られており、信仰対象を足蹴にするという行為が信者に与える精神的苦痛は極めて大きかった。現在、これらの遺物は重要文化財として保管されており、当時の宗教美術としての側面も併せ持っている。

宗門改と社会的な実施プロセス

絵踏は単独の行事ではなく、「宗門改」と呼ばれる戸籍・宗教調査の一環として運用された。毎年正月の一定期間、各町の役人が家々を回り、あるいは寺院や庄屋の屋敷に住民を集めて実施した。各世帯の主人が家族や奉公人を連れて現れ、役人の監視下で順番に踏絵を踏む。この記録は「宗門人別改帳」に厳密に記され、村落共同体全体でキリシタンを排除する相互監視の仕組みが構築された。踏むことを躊躇した者は即座に捕縛され、転宗を迫る激しい拷問が行われた。そのため、潜伏キリシタンたちは、役人の前では絵踏を行いながら、自宅に戻ってからその罪を悔い改めて祈りを捧げるなど、過酷な二重生活を送ることを余儀なくされた。

長崎奉行所における絵踏の慣習化

長崎は幕府の直轄地であり、海外貿易の拠点としてかつてキリスト教が深く浸透していたため、絵踏は他の地域よりも遥かに厳格かつ大規模に行われた。長崎では毎年正月八日に奉行所で「踏絵始め」の儀式が行われ、その後各町へと展開された。江戸中期以降、長崎の絵踏は次第に形式化し、ある種の年中行事のような側面すら帯びるようになった。出島に居住していたオランダ人たちもその異様な光景を詳細に記録しており、当時の日本の宗教政策の特異性として海外に紹介されることとなった。しかし、その平穏な表面下では、幕末まで徹底的な信徒摘発の努力が続けられていた。

絵踏と踏絵の定義および名称の区別

歴史学的な使い分けにおいて、絵踏は人々が像を踏むという「行為」や「制度」そのものを指し、踏まれる対象物(道具)を「踏絵」と呼んで区別する。江戸時代の公文書においては「絵踏」という語が主に使用されており、これは幕府側が宗教的行為よりも、行政上の手続きとしての側面を重視していたことを示唆している。しかし、後世の文学作品や教科書においては、視覚的な印象が強い「踏絵」という言葉が、行為そのものを指す代名詞として定着した背景がある。このため、現代においても両者はしばしば混同して用いられるが、学術的には区別されるべき概念である。

制度の終焉と明治維新後の展開

19世紀に入り、欧米列強による開国要求が強まると、徳川幕府の禁教政策は国際的な摩擦の要因となった。1854年の日米和親条約締結後、日本を訪れた外国人からの批判が高まり、1858年には長崎での絵踏が事実上廃止された。しかし、これはあくまで対外的な配慮であり、日本人に対する禁教自体は継続された。明治維新後も、新政府は当初「キリシタン禁制」を維持したが、浦上信徒の流罪(浦上四番崩れ)が国際的な非難を浴びたことで、1873年(明治6年)にようやくキリスト教解禁がなされた。これにより、200年以上にわたる絵踏の歴史は名実ともに幕を閉じた。

文化的影響と現代における意味

絵踏は単なる歴史的事件に留まらず、日本人の宗教観や精神構造に深い影を落とした。遠藤周作の小説『沈黙』は、絵踏を強要される宣教師の苦悩を通じて信仰と救いを問い、世界的な評価を得ている。また、現代社会においても、ある人物の真意を強引に引き出したり、特定の思想への忠誠を誓わせたりする過酷な試験や状況を指して「踏絵」という比喩表現が使われる。これは、この制度がいかに日本人の歴史的記憶に深く刻まれているかを示す証左であり、個人の良心と権力の対立という普遍的な課題を今日に伝え続けている。現代の仏教寺院などでも、かつての寺請制度の名残が見られることがあり、絵踏が遺した社会的影響は多岐にわたる。

分類 詳細情報
実施目的 キリシタンの摘発、棄教の確認、寺請制度による民衆管理
主な道具 真鍮製踏絵(長崎踏絵)、木製踏絵、紙踏絵
関連制度 宗門改、寺請制度、五人組、鎖国体制
最盛期 17世紀中葉(島原の乱後)〜 19世紀中葉
廃止の経緯 1858年(事実上の廃止)、1873年(禁教令の公式撤廃)

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