『宇津保物語』|琴の秘曲と求婚を描く、最古の長編

宇津保物語

宇津保物語(うつほものがたり)は、平安時代中期、10世紀後半頃に成立した日本最古の長編物語である。全20巻という膨大な分量を持ち、遣唐使の清原俊蔭から始まる一族の四代にわたる繁栄を、音楽の伝承と複雑な恋愛、政治抗争を通じて描いている。本作は、それまでの短編的な物語文学の枠を超え、後の源氏物語へと続く大規模な物語構成の先駆けとなった点で、日本文学史上極めて重要な位置を占める。特に、一族の血統を音楽(琴の技)によって象徴させるという独創的な趣向が凝らされており、神秘的な伝奇性と現実的な貴族社会の描写が混在しているのが特徴である。

成立と作者の謎

宇津保物語の正確な成立年代や作者については、古来より多くの議論がなされてきた。一般的には、村上天皇期から一条天皇期の初期(970年頃から999年頃)にかけて執筆されたと推測されている。作者については、当時の代表的な博識家であり、歌人としても知られる源順(みなもとのしたごう)を擬する説が有力であるが、確定には至っていない。本作の内容は、先行する竹取物語の伝奇性を受け継ぎつつも、後の落窪物語に見られるような家庭内の写実的な描写も含まれており、過渡期的な文学作品としての性格を色濃く反映している。

物語の基本構成

物語は構造上、大きく四つの部分に分けることができる。まず「俊蔭巻」から始まり、清原俊蔭が遣唐使として渡海する途中で難破し、波斯国(ペルシア)で仙人から霊妙な七絃琴の技を授かって帰国するまでの物語である。次に、俊蔭の娘と藤原兼雅の間に生まれた仲忠が、母と共に山中の木の空洞(うつほ)で暮らしながら琴を修得し、やがて都へ戻って父と再会する過程を描く。続いて、絶世の美女である貴宮(あてみや)を巡り、多くの有力な貴公子たちが競い合う大規模な求婚譚が展開される。最後には、仲忠が琴の奥義を次世代へと伝え、一族が皇室と結びついて栄華を極める結末へと至る。

「うつほ」の意味と隠遁の情景

書名にもなっている「うつほ(空洞)」という言葉は、物語の中盤で重要な舞台となる山中の大木の洞(ほらあな)を指している。俊蔭の死後、その娘と孫の仲忠は没落し、この木の中で極貧生活を送りながらも琴の修行を続ける。この「うつほ」での隠遁生活は、世俗の権力から離れた純粋な芸術の継承の場として描かれており、神聖な音楽の力がいかにして培われたかを象徴している。同時に、この極端な窮乏と、その後の劇的な立身出世の対比は、当時の読者に強い驚きと感動を与える娯楽的な要素としても機能していた。

音楽の伝承と神秘性

宇津保物語において、「琴(きん)」は単なる楽器ではなく、天変地異を引き起こし、神仏を感動させる超自然的な力を持つ霊具として扱われている。俊蔭が仙人から授かったこの音楽の技は、選ばれた血統のものだけに継承される特別な資格であり、社会的な地位や権威を裏付ける強力な根拠となっている。仲忠が音楽の力によって帝や上皇を魅了し、政治的な成功を収めていく過程は、平安貴族社会における教養としての音楽の重要性を極限まで拡大して描いたものと言える。このような音楽を中心とした物語構造は、他の古典文学には見られない本作独自の独創性である。

求婚譚と政治的リアリズム

物語の後半部分を占める貴宮への求婚競争は、当時の貴族社会の人間模様を鮮やかに描き出している。貴宮をめぐって、時の有力者である源実忠や藤原仲頼といった面々が滑稽かつ必死な求婚活動を展開する様子は、ユーモアに富んでおり、風刺的な視点さえ感じさせる。また、単なる恋愛問題にとどまらず、どの家系が皇室と縁戚関係を結ぶかという政治的な駆け引きが緻密に描写されており、現実の政界の権力闘争が物語の背景に色濃く反映されている。この写実的な政治描写は、のちの物語作家たちに多大な影響を与えた。

源氏物語への影響と文学史的意義

宇津保物語は、紫式部によって執筆された最高傑作『源氏物語』に多大な影響を与えた。例えば、複数の世代にわたる家系の歴史を描く手法や、音楽を媒介として人物の品格や精神性を表現する演出、さらには宮廷社会の内幕を冷徹に見つめる視点など、多くの要素が継承されている。また、伊勢物語などの歌物語が叙情的な短編であったのに対し、本作は散文によって広大な世界を構築しようとした意欲作であり、日本における長編小説形式の確立に向けた偉大なる実験作であったと評価されている。

主要登場人物と役割

  • 清原俊蔭:物語の始祖。遣唐使として渡唐し、仙人から秘琴の技を日本へ持ち帰る。
  • 俊蔭の娘:没落しながらも父の教えを守り、息子の仲忠に琴の秘技を伝授する。
  • 藤原仲忠:物語の主人公格。優れた琴の才と知略を持ち、一族を再興させる。
  • 貴宮(藤原多子):物語屈指の美女。多くの求婚者に悩まされるが、最終的に女御となる。
  • 藤原兼雅:仲忠の父。俊蔭の娘との再会を経て、仲忠の出世を支える有力な後ろ盾となる。

巻名構成一覧

巻数 巻名 主な内容
1 俊蔭 俊蔭の渡唐、波斯国での琴の習得、帰国と隠棲。
2-3 藤原の君・嵯峨院 仲忠と兼雅の出会い、仲忠の参朝と才能の開花。
4-12 忠こそ・貴宮・吹上など 貴宮への求婚競争と、様々な貴公子たちの失敗談。
13-20 蔵開・楼の上など 琴の伝承儀式、仲忠の娘の入内、一族の最終的な栄華。