犬養部
犬養部(いぬかいべ)とは、古代日本の部民制において、狩猟や守衛、軍事、あるいは宮廷の儀礼に用いる犬の飼育・管理に従事した職業的な品部(しなべ)である。主として大和王権の支配下で組織され、各地の直轄地である屯倉の警備や、王権の武力・威信を示す役割を担った。その組織運営は、伴造(とものみやつこ)である犬養氏や県犬養氏らによって統括されていた。犬養部の存在は、当時の軍事組織や地方支配の形態を理解する上で重要な指標となっており、のちの律令制への移行期においてもその名残を留めている。
犬養部の起源と役割
犬養部の成立時期は、概ね5世紀から6世紀にかけてのヤマト王権の拡大期に求められる。古代において、犬は単なる愛玩動物ではなく、優れた嗅覚と警戒能力を活かした「狩猟の補助」や「施設の防衛」を担う重要な軍事的・実用的資源であった。日本書紀などの記述によれば、犬養部は主に王権が所有する鷹狩りの補助や、宮門の守護、さらには敵対勢力に対する威嚇などの任務に従事した。こうした専門技術を持つ集団を部として組織化することで、王権は安定した警備能力と食料確保手段を保持することが可能となったのである。また、祭祀において犬が清めや魔除けの象徴として扱われることもあり、宗教的な側面での奉仕も含まれていたと考えられる。
伴造と氏族の構成
犬養部を統括した伴造としては、主に犬養連(いぬかいのむらじ)や、地方行政に深く関与した県犬養連(あがたいぬかいのむらじ)が知られている。これらの氏族は、氏姓制度の中で特定の職能を世襲する伴造としての地位を確立し、全国に点在する部民を管理・統制した。特に県犬養氏は、各地の「県(あがた)」に置かれた犬養部を管理し、中央への貢納や軍事力の提供を仲介する重要な役割を果たした。また、稚犬養(わかいぬかい)などの分派も存在し、それぞれが王権の直轄的な軍事・警備組織の一翼を担っていたことが、金石文や正倉院文書などの記録から確認されている。
屯倉の警備と地方展開
犬養部の配置は、王権の直轄領である屯倉の分布と密接に関連している。屯倉は収穫物や財宝を保管する重要な拠点であり、その安全を確保するために犬養部が周辺に配置されることが多かった。これは、単なる盗難防止だけでなく、地方豪族に対する王権の権威を示すデモンストレーションとしての側面も強かった。各地に残る「犬養」という地名は、かつてその地に犬養部が居住し、土地の管理や警備に従事していた歴史を反映していることが多い。このように、犬養部は中央と地方を結ぶ支配システムの末端として機能し、王権による全国支配の浸透に寄与した。
文献に見る犬養部
古事記や日本書紀には、犬養部にまつわる具体的なエピソードが散見される。例えば、雄略天皇の時代に鳥養部や猪養部とともに、特定の職能集団として整備されたとする伝承が残されている。これらの記述は、当時の王権がいかに多種多様な専門家集団を「部」として組織化し、官僚機構の原型を作り上げようとしていたかを示している。また、敏達天皇の時代には、犬養部の管理体制を強化するための再編が行われたとする記録もあり、王権の軍事基盤を支える組織として継続的に重視されていたことが窺える。
律令制下への変遷
7世紀後半から8世紀にかけて進行した大化の改新以降の公地公民制への移行により、従来の部民制は解体され、犬養部もその法的地位を失った。しかし、職能そのものが完全に消滅したわけではなく、一部は兵部省や衛門府といった律令官制の組織に組み込まれ、宮廷警備の実務を継承した。県犬養氏などの有力な伴造家系は、律令官人として官僚機構の中に生き残り、橘三千代(県犬養三千代)のように天皇の側近として強大な権力を持つ人物も輩出した。犬養部という集団としての実体は失われたが、その軍事的・政治的系譜は、平安時代に至るまでの貴族社会や官人社会の中に形を変えて存続していった。
他の「養部」との比較
| 名称 | 主な管理対象 | 主な役割 | 関連氏族 |
|---|---|---|---|
| 犬養部 | 狩猟犬・番犬 | 守衛、狩猟補助、宮廷儀礼 | 犬養氏、県犬養氏 |
| 鳥養部 | 鷹、鵜、鶏 | 鷹狩り、神事、食糧供給 | 鳥養氏 |
| 馬飼部 | 軍馬、伝馬 | 交通、通信、騎馬軍事 | 馬飼氏 |
| 猪養部 | 家畜(猪・豚) | 食用家畜の飼育、供物 | 猪養氏 |
文化的遺産としての名称
現代においても「犬養」という名字は、この古代の犬養部に由来する由緒ある名前として認識されている。著名な人物として、第29代内閣総理大臣を務めた犬養毅が挙げられるが、その家系も備中国(現在の岡山県)の県犬養氏の流れを汲むとされる。古代の職業集団が名字として定着し、千数百年の時を経て現代の政治・文化史にまで繋がっている点は、日本の氏姓発展における特異な事例と言える。犬養部の活動の痕跡は、目に見える遺跡としては少ないものの、地名や名字、そして文献資料を通じて、古代国家形成期の息吹を今に伝えている。