第二革命
第二革命とは、1913年に起こった中華民国初期の反袁世凱運動であり、主として国民党勢力が軍事蜂起という手段を用いて、臨時約法体制と議会政治を守ろうとした武装闘争である。辛亥革命後に成立した中華民国は、共和制国家としての枠組みを整えようとしていたが、実権を握る袁世凱が権力集中を進めたことで、政党政治と軍事独裁が激しく衝突する事態となった。その頂点に位置した事件が第二革命であり、失敗に終わったものの、その後の北洋軍閥支配と軍閥割拠時代の出発点として位置づけられている。
成立の背景
辛亥革命によって清朝が崩壊すると、革命派を代表する孫文を臨時大総統とする南京臨時政府が成立した。しかし、軍事力を掌握していたのは北洋軍を率いる袁世凱であり、清朝退位と共和制承認を交換条件として、政権は北京に移されることとなった。こうして名目上は共和制国家中華民国が誕生したが、実際には北洋軍を基盤とする軍事勢力と、政党政治を通じて近代国家建設を構想する革命派との対立が深まっていった。
臨時約法と宋教仁暗殺
南京臨時政府期に制定された臨時約法は、主権在民と議会主義を掲げ、大総統の権限を制限する憲法的性格の文書であった。これを根拠に、革命派の指導者宋教仁は、政党内閣制を通じて議会中心の政治を実現しようとし、1913年の国会選挙で国民党は圧勝した。しかし、その直後に宋教仁は上海駅頭で暗殺され、その背後に袁世凱政権の関与が疑われた。議会多数派を得た国民党に対し、袁が軍事力と官僚機構を背景に牽制を強めたことが、後の第二革命の直接的な誘因となったのである。
地方における反袁の高まり
宋教仁暗殺後も、袁世凱は臨時約法を無視するかたちで権限拡大を進め、国会や地方勢力との対立は一層深刻化した。特に長江流域の省では、革命派軍人や地方指導者が、北洋軍主導の中央集権化に強い危機感を抱いていた。こうした地方軍人・政治家は、辛亥革命期からの自立性を維持しようとし、袁政権に対し武装抵抗の可能性を検討するようになった。このような地域的緊張の蓄積が、やがて第二革命として爆発することになる。
武装蜂起の展開
1913年夏、江西省で李烈鈞らが反袁を掲げて蜂起すると、その動きは安徽・広東などにも波及し、これらの蜂起を総称して第二革命と呼ぶようになった。蜂起側は、袁世凱が臨時約法を破り、議会政治を形骸化させていると非難し、憲政の擁護を正当性の根拠とした。しかし、北洋軍は装備・兵力ともに優勢であり、各地の蜂起は連携が不十分なまま個別に鎮圧されていった。長期戦を想定した統一指令系統を構築できなかったことが、蜂起側の大きな弱点であった。
国民党と孫文の対応
蜂起の中心勢力となったのは国民党であり、党首的存在であった孫文は、当初から武力による袁打倒に積極的であったとされる。孫文は上海などで資金調達や宣伝活動を進め、海外在住華僑にも支援を求めた。だが、辛亥革命時と比べると民衆の熱気は弱まり、各地の軍隊も必ずしも革命派に同調せず、北洋軍に留まる将兵が多かった。このように社会的・軍事的基盤が十分でなかったことが、第二革命の広がりを妨げた。
革命の敗北とその直後
第二革命の蜂起は、1913年のうちにほぼ鎮圧され、指導者の多くは海外へ亡命した。孫文も日本へ再び亡命し、在日華僑や日本人支援者のもとで反袁運動の継続を図ることになる。一方、国内に残った革命派は逮捕・処刑・投獄などの弾圧にさらされ、議会勢力としての国民党は解散を命じられた。こうして、辛亥革命後に一度は試みられた議会主義・政党政治の試行は、短期間で挫折するに至ったのである。
袁世凱独裁体制の強化
第二革命鎮圧後、袁世凱は反対勢力を一掃し、権力を個人のもとに集中させる体制を急速に整えた。国会は形骸化し、地方軍閥も北洋軍系の構造に再編されていった。袁はやがて帝政復活をめざして皇帝即位を画策するが、その強権化の過程は、すでに第二革命鎮圧によって大きく前進していたといえる。この意味で第二革命の敗北は、共和制の後退と軍事独裁の確立を象徴する政治的転機であった。
護国運動・軍閥時代への連関
第二革命の失敗によって、合法的な議会闘争の道は閉ざされ、反袁勢力は武装闘争へと傾斜していく。袁世凱が帝政を宣言すると、雲南など南方諸省の勢力は護国運動として再び挙兵し、袁政権は最終的に崩壊した。しかし、その後に残されたのは、統一された共和政体ではなく、各地の軍人が自立して割拠する北洋軍閥中心の軍閥時代であった。第二革命は、こうした軍閥割拠への道筋を早い段階で示した事件として理解される。
歴史的意義
第二革命は軍事的には短期間で鎮圧され、主導した国民党も解体されたため、直接的成果は乏しかった。しかし、臨時約法と議会政治を掲げて袁世凱の権力集中に抗した点で、近代的な立憲主義を擁護しようとする試みであったと評価される。また、その敗北は、武力のみを基盤とする国家建設の危うさと、政党・議会・民衆の幅広い支持を欠いた革命運動の限界を示した。のちに孫文が三民主義を掲げて再起を図る過程でも、第二革命の経験は重要な教訓として意識され続けたのである。