マルトフ
マルトフ(本名ユリウス・オシポヴィチ・ツェデルバウム)は、ロシア帝国のマルクス主義運動を代表する革命家であり、のちにメンシェヴィキの理論的指導者となった人物である。彼はレーニンとともに若いころから地下活動に参加したが、ロシア社会民主労働党第2回大会での組織論争を契機にレーニンと対立し、党はボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂した。マルトフは専制的な前衛党ではなく、大衆政党と議会主義を重視する立場から、民主主義的な社会主義運動の代弁者として歴史に名を残した。
生い立ちと革命運動への参加
マルトフは1870年代のロシア帝国に生まれ、ユダヤ人中産階級の家庭に育ったとされる。青年期にマルクス主義思想と出会い、学生運動や地下結社に参加し、帝政ロシアの専制と警察国家的支配に反対する活動に身を投じた。彼は早くから社会民主主義の理論書を読み込み、都市労働者の組織化や宣伝活動に関わり、逮捕や流刑を経験しながらも運動の第一線に立ち続けた。こうした経歴は、同世代の革命家と同様に、シベリア流刑や国外亡命を通じて政治的視野を広げていく典型例であった。
ロシア社会民主労働党と分裂
1890年代末から1900年代初頭にかけて、マルトフはレーニンらとともにロシアのマルクス主義者を統一する政党づくりに取り組み、1903年に結成されたロシア社会民主労働党の指導部に加わった。党の機関紙を編集し、理論と実践を結びつける役割を果たしたが、第2回党大会では党員資格をめぐる組織論争が激化した。レーニンは厳格な党規律のもと少数精鋭の前衛党を主張したのに対し、マルトフは労働者や支持者を広く包摂する大衆政党モデルを唱えた。この対立の結果、多数派の「ボリシェヴィキ」と少数派の「メンシェヴィキ」という分裂が生まれ、ロシア革命史の大きな転換点となった。
メンシェヴィキの指導者として
マルトフは分裂後、メンシェヴィキの中心的理論家として活動し、ロシアの社会主義運動を西欧型の議会主義的発展へ導こうとした。彼はドイツ社会民主党など西欧社会民主主義の経験を重視し、ロシアでもまずブルジョワ的な立憲体制と市民的自由を確立し、その後に社会主義化が進むという二段階的発展論を支持した。ストライキや労働組合運動を通じて労働者階級を組織しつつ、ドゥーマ(帝国議会)への参加も否定せず、議会闘争と大衆運動を結合させる戦略を選んだ点に、ボリシェヴィキとの違いが表れている。
第一次世界大戦とロシア革命
第一次世界大戦が勃発すると、国際社会主義運動は戦争支持か反戦かで分裂したが、マルトフは一貫して国際主義的な反戦立場に立ち、帝国主義戦争として戦争を批判した。彼は第2インターナショナル内部の戦争支持派を批判し、国際的な反戦社会主義者の連携を模索した。1917年の二月革命によってロマノフ王朝が崩壊すると、マルトフもロシアに戻り、ソヴェト(評議会)内で影響力を持つようになるが、十月革命によるボリシェヴィキの単独権力掌握には批判的であった。彼は多党制とソヴェト民主主義の共存を主張し、一党独裁への移行に強い懸念を示した。
亡命と晩年
ロシア内戦の過程で、メンシェヴィキは次第に弾圧の対象となり、マルトフ自身も政治活動を制限されていった。やがて彼は国外への亡命を余儀なくされ、ドイツなど西欧に拠点を移してボリシェヴィキ政権の政策を批判する論説を執筆した。彼はロシア革命が専制体制を打倒した歴史的意義を認めつつも、プロレタリア独裁の名のもとに展開された一党支配と抑圧を厳しく批判し、社会主義は民主主義と自由を基盤とすべきであると訴えた。晩年のマルトフは健康を害しながらも、亡命地でロシア社会主義運動の総括と将来展望を描こうとしたが、その多くは完全な形では結実しなかった。
思想的特徴と歴史的評価
マルトフの思想は、マルクス主義を掲げながらも、個人の自由や法の支配、議会制民主主義を重視する点に特徴がある。彼はマルクス主義を教条的に解釈するのではなく、ロシア社会の現実に即して柔軟に適用しようとし、暴力革命とテロルによる統治には終生批判的であった。この立場は、のちの社会民主主義の流れと親和性が高く、西欧の社会主義政党との理論的連続性も指摘される。一方で、権力掌握に失敗したメンシェヴィキの指導者であったため、ソ連史観では周辺的に扱われがちであった。しかし現代の歴史研究では、ロシア革命期におけるもう一つの選択肢を体現した人物として、そして民主的社会主義の可能性を示した思想家として、マルトフの評価は再検討されつつある。