ロシア社会民主労働党
ロシア社会民主労働党は、ロシア帝国末期に成立したマルクス主義政党であり、ツァーリ専制と資本主義体制を打倒し、社会主義社会の建設をめざした組織である。帝国内のマルクス主義グループや労働者運動を統一しようとして結成され、のちにボリシェヴィキとメンシェヴィキへ分裂し、1917年のロシア革命へとつながる政治勢力の母体となった点で、近代世界史・ロシア史の重要な転換点を示す政党である。
結成の背景と初期の歩み
ロシア社会民主労働党は、産業化の進展にともなって形成された都市労働者階級と、大学を中心に活動した急進的インテリゲンツィアのあいだから生まれた。19世紀末のロシア帝国では、ツァーリ専制のもとで議会制度や言論の自由が制限される一方、工業化の進展により労働争議が頻発し、革命的な社会主義思想が浸透しつつあった。各地に散在していたマルクス主義グループを統一し、全ロシア的な労働者政党を組織しようという動きが高まり、1898年に第1回党大会が開催されて結成が宣言されたが、秘密警察の弾圧により指導者の逮捕が相次ぎ、初期の組織基盤は脆弱であった。
綱領・組織原理と党機関紙
同党はマルクス主義に立脚し、ロシア社会を封建的・専制的な後進社会から資本主義社会へ、さらに社会主義社会へと発展させる歴史的段階論を前提としていた。その綱領では、ツァーリ専制の打倒、言論・集会・結社の自由、普選による立憲議会の創設、労働時間の短縮や労働条件の改善などが掲げられた。組織原理としては、少数の訓練された革命家による中央集権的な党か、大衆政党として幅広い支持者を包摂する民主的な党かという問題が早くから議論され、これがのちの分裂の伏線となる。また、亡命地で発行された党機関紙「イスクラ(火花)」は理論的論争と党員教育の場となり、ヨーロッパ社会主義運動やニーチェなど西欧思想の動向も紹介しつつ、帝国内の活動家を精神的に結びつける役割を果たした。
ボリシェヴィキとメンシェヴィキへの分裂
1903年の第2回党大会では、党規約と組織原理をめぐって激しい論争がおこり、レーニンらの一派が「職業的革命家」と厳格な党規律を重視する立場から、中央集権的な前衛党モデルを主張した。これに対して、マルトフらは党員資格をゆるやかに定め、大衆的・民主主義的な政党を志向したため、票決の結果、多数派(ボリシェヴィキ)と少数派(メンシェヴィキ)に分裂した。同じ政党名を名乗りつつも、組織や戦略、ブルジョワ勢力との協力をどう評価するかといった点で両派の対立は深まり、党内統一は実質的に崩れた。この分裂はロシア革命期の政治勢力図を理解するうえで欠かせない要素である。
1905年革命と第一次世界大戦
1905年革命が勃発すると、同党の活動家はストライキやソヴィエト(労働者代表評議会)組織に参加し、専制体制に対する抵抗を組織した。しかし、革命の挫折と反動期の弾圧により、多くの活動家がシベリア流刑や亡命を余儀なくされる。それでも都市労働者層に対する影響力は徐々に拡大し、第一次世界大戦が始まると、戦争支持か反戦かをめぐって各国社会主義政党が分裂するなか、ボリシェヴィキは帝国主義戦争に反対し、兵士・労働者・農民の不満を組織化していった。工業化と軍需産業の発展は、機械部品やボルトに象徴される重工業の拡大と同時に、都市労働者の戦時生活の困窮をもたらし、それが革命的雰囲気を高める条件となった。
ロシア革命とその後の位置づけ
1917年の2月革命・10月革命の過程で、ボリシェヴィキは急速に大衆的支持を獲得し、最終的に政権を掌握した。これに対してメンシェヴィキは臨時政府を支持しつつ漸進的改革をめざしたが、内戦とソヴィエト権力の確立のなかで影響力を失い、弾圧の対象ともなった。ボリシェヴィキはやがてロシア共産党へと改組され、旧来のロシア社会民主労働党としての枠組みは消滅していく。しかし、その経験はヨーロッパの社会主義運動や反資本主義運動に大きな刺激を与え、20世紀の革命運動・労働運動を理解する際の基点となる。後世の思想家やサルトルらが展開した革命論・行動論を検討する際にも、同党の組織論と実践は重要な参照枠となっている。
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