西太后
西太后は、清朝末期に事実上の最高権力者として君臨した人物である。もとは咸豊帝の側室にすぎなかったが、皇子を産んだことで地位を高め、宮廷クーデタを通じて摂政の座を手に入れた。以後、清の政治は約半世紀にわたり西太后の意向に左右され、内政改革と保守的な宮廷政治、対外戦争と列強との妥協が複雑に交錯することになった。彼女は一方で近代化政策である洋務運動を支援しつつ、他方で急進的な立憲改革を弾圧した人物として記憶されている。
少女時代と後宮入り
西太后は満州旗人の家に生まれ、若い頃に後宮へ入った。後宮では厳格な序列と礼法が支配しており、低い位の妃が台頭する余地は限られていたが、彼女は聡明さと人心掌握の巧みさによって周囲の信頼を得たとされる。やがて咸豊帝の寵愛を受けるようになり、皇子(のちの同治帝)を出産したことで、地位は飛躍的に高まった。
咸豊帝の側室から権力掌握へ
第2次アヘン戦争のさなか、太平天国の乱や列強の圧力により、清朝は深刻な危機に陥っていた。咸豊帝が熱河に避難し、その地で急逝すると、幼い皇子をめぐる後継問題が浮上した。ここで西太后は、賢后と協力しながらも、実際には軍事的支柱である湘軍の勢力を背景に、保守派官僚と連携して宮廷クーデタを成功させた。これにより彼女は「聴政」を名目に摂政となり、幼帝・同治帝の名のもとで政務を主導する立場を獲得したのである。
同治帝・光緒帝の摂政
西太后は、同治帝が成人した後も政治への影響力を維持し続けた。形式的には皇帝親政に移行しても、重要な人事や外交方針はなお彼女の同意を必要とした。同治帝が早世すると、今度は親族にあたる幼い光緒帝を擁立し、再び摂政の地位に立つ。こうして西太后は、二代にわたる皇帝の上に立つ存在として、清末政治を事実上統御したのである。
洋務運動との関わり
太平天国の鎮圧と内乱後の再建にあたり、曾国藩や李鴻章ら地方有力官僚は、西洋の軍事技術や産業技術を取り入れる洋務運動を推進した。西太后は、儒教的秩序や皇帝専制を維持する範囲内であれば、西洋技術の導入を容認し、海軍建設や機器工場の設立、電信網の整備などに一定の支援を与えた。彼女にとって近代化は、あくまで王朝防衛のための手段であり、政治体制そのものを変える「立憲」や「議会」といった構想には強い警戒を示した。
変法自強運動と戊戌政変
日清戦争の敗北により、清朝の弱体ぶりは一層明らかとなった。若い光緒帝のもとで康有為・梁啓超らが主導した変法自強運動は、立憲君主制や議会制度の導入、官僚機構の抜本改革を提唱し、近代中国への移行を図ろうとした。だが、急進的な改革は既得権益を脅かし、宮廷内の保守派を刺激した。西太后は改革のテンポと範囲に強い危機感を抱き、軍事力を掌握する袁世凱らの協力を得て戊戌政変を断行し、光緒帝を幽閉して変法派を失脚させた。ここに、体制転換をめざす立憲改革の試みは大きく挫折することになった。
義和団事件と対外政策
19世紀末、列強による中国分割の圧力が強まるなかで、地方には反外国人・反キリスト教の武装集団が出現した。これが義和団事件である。当初、朝廷内では義和団を抑えるべきか利用すべきかで意見が割れたが、最終的に西太后は「扶清滅洋」のスローガンを掲げた義和団との提携に傾き、列強に対して宣戦布告する決断を下した。その結果、八カ国連合軍が北京を占領し、清朝は巨額の賠償金とさらなる権益譲与を強いられた。これは王朝の威信を著しく損なう結果となり、のちの辛亥革命へとつながる不満を一層蓄積させた。
晩年の改革と限界
義和団事件後、西太后は列強の圧力と国内世論を背景に、科挙の廃止や新式教育の導入、地方諮議局の設置など「新政」と呼ばれる一連の改革を打ち出した。これは、遅ればせながら立憲君主制へ接近しようとする試みでもあったが、王朝そのものへの信頼はすでに大きく揺らいでいた。満州貴族と漢人官僚、都市の新興商工業者や知識人の利害は複雑に絡み合い、部分的な改革では社会の変化に追いつくことができなかったのである。
人物評価と歴史的意義
西太后については、長らく「頑迷な保守専制の象徴」とする厳しい評価が支配的であった。しかし近年の研究では、彼女が権力政治家として卓越した手腕を持ち、同時に国際情勢を読みながら王朝維持のための妥協と近代化を図った側面も指摘されている。結果として清朝は滅亡を免れなかったが、彼女の下で進められた限定的な改革や外交交渉は、帝国崩壊から中華民国成立に至る激動期の一過程として位置づけられる。西太后は、伝統的皇帝専制と近代国家形成のはざまで揺れ動いた清末政治の象徴的存在であり、その生涯は清王朝終末期の矛盾と可能性を映し出しているといえる。