ランナー王国
ランナー王国は、タイ北部を中心に13世紀後半から16世紀にかけて栄えたタイ系政権である。創始者マンラーイ(Mangrai)はハリプンチャイを併合し、1296年にチェンマイを建設して王都とした。山地と盆地が交錯する地域にムアン(都市国家)を網の目のように配し、ピン川・ナン川流域からメコン中流域まで影響力を及ぼした。宗教は上座部仏教を中心に、モン文化やパーリ語伝統を積極的に受容し、独自のラーナー文字(タイ・タム)で経典や年代記を残した。周辺のシャム、アユタヤ朝、ランサン王国、ビルマ勢力、さらに中国雲南との交通により、多層的な外交・交易圏を形成した。
成立と勢力圏の拡大
マンラーイはチェンセーンから出発して内陸交易路を掌握し、古都ハリプンチャイ(現ラムプーン)を取り込むことで北タイ盆地を統合した。都城チェンマイは防御性の高い城壁と水利網を備え、周囲のムアンに王族・功臣を配して間接支配を進めた。14世紀にはスコータイやアユタヤ朝と宥和と競合を繰り返しつつ、ラオ系・タイ系諸ムアンとの同盟・婚姻を通じて広域秩序を築いた。
政治構造とムアンのネットワーク
ランナー王国の支配は、中心(チェンマイ)と周縁ムアンの重層的同心円からなる「マンダラ的」構造であった。君主(チャオ/パヤー)は、地方ムアンに自立性を与えつつ、軍事動員・課税・儀礼を通じて統合した。ムアン間は堀と土塁で区画され、灌漑水路(ファイ)と水田経営により生産力が維持された。
- 王権:王都の神殿・仏舎利と王権が結びつく聖俗統合
- 官人:在地首長を官僚化し戸籍・賦役を掌握
- 徴発:戦象・弓騎兵・運輸動員をムアン単位で割当
法・文書・文字文化
ラーナー文字(タイ・タム)で編まれた法令・年代表は、仏教寺院の写本として継承された。寺院は教育と記録の中枢であり、僧院はムアン社会の規範を支えた。
宗教・美術と都市景観
上座部仏教はスリランカ系の戒律系譜とモン系伝統の融合で深化した。ワット・チェーディールアンやワット・プラシンなどに代表されるラーナー様式は、高い基壇、幅広い屋根、木彫・漆工・金箔装飾を特色とする。仏教儀礼は王権の正統性を強化し、都市景観に塔(チェーディー)と堀が調和を与えた。
対外関係と朝貢
対外的には、南でアユタヤ朝、東でランサン王国、西でビルマ系王朝とせめぎ合い、北では雲南商路を介して中国の明に朝貢した。絹・塩・薬材・漆・象・木材などの交易はムアン経済を潤し、時代後半には15~16世紀の大航海時代の波及により、港市状態の変化が内陸にも影響を及ぼした。冊封・朝貢の運用が不安定化すると、周辺秩序の綻び(いわゆる朝貢体制の動揺)が北タイにも及んだ。
ビルマ支配と再統合
16世紀半ば、ビルマのタウングー朝バインナウンの遠征により、1558年にチェンマイは陥落した。以後、ラーナーはビルマ系政権下で軍事・行政の再編を受け、都城には駐屯軍が置かれた。18世紀末、トンブリー朝からチャクリー朝への再編の過程で北タイはシャム側に復帰し、カウィラ家の復興政策により荒廃地の再人口化と堀・城壁の再整備が進んだ。以後、ラーナーの諸ムアンはバンコク政権の内属領として近代国家形成に組み込まれていく。
経済基盤と交易路
経済面では、水田稲作と山地資源(柞・漆・薬草)に加え、チーク材と象が重要な輸出資源であった。陸路はメコン・ナーン・ピンの谷筋を結ぶキャラバンが担い、雲南への往還や中継市場チェンマイの発展を促した。僧院ネットワークは信用・度量衡・通行の規範を提供し、在地商人と王権・寺院の三位一体で市場秩序が保たれた。
歴史的意義
ランナー王国は、タイ系・ラオ系・ビルマ系が交錯する北陸部において、ムアン間連合を通じて広域秩序を形成し、上座部仏教文化の結節点となった。ラーナー文字・仏教美術・都市工学は現在の北タイ文化の基層をなし、内陸交易と王権儀礼の統合という東南アジア史の特質を示す重要な事例である。周辺王朝との抗争と接続、そして近世国家への包摂という歩みは、地域史と世界史の接点を明らかにしている。