IIRフィルタ
IIRフィルタ(Infinite Impulse Response)は、過去の出力を帰還させることで無限長のインパルス応答をもつディジタルフィルタである。連続時間のアナログフィルタを離散化して得られることが多く、少ない次数で鋭い振幅特性を実現できる点が特徴である。設計では極と零点の配置、安定性、量子化誤差、演算スケーリングを総合的に考慮する。サンプリング系ではサンプリング定理とナイキスト周波数の制約下で特性が決まる。用途は音響、通信、計測、制御まで広く、実装形態や固定小数点仕様に応じた最適化が重要である。
定義と基本概念
IIRフィルタは入出力関係を線形時不変(LTI)系として表し、有限の係数で無限長の応答を実現する。有限加重の畳み込みのみで動作するFIRフィルタと異なり、帰還項を含むため次数に対して急峻な遮断特性を得やすい。理論上の利点は係数数の節約と位相遅れの小ささであり、欠点は安定性と数値感度への配慮が不可欠な点にある。
伝達関数と差分方程式
IIRフィルタはZ領域での伝達関数H(z)=B(z)/A(z)で表し、差分方程式はy[n]=−∑k=1Maky[n−k]+∑k=0Nbkx[n−k]となる。安定条件は極が単位円内に位置すること、因果性は実装により満たされる。極の近傍に零点を配置すると帯域通過やノッチが鋭くなるが、数値誤差に敏感になるため係数量子化とスケーリングを同時に検討する。
特性:振幅・位相・安定性
IIRフィルタは極配置により遮断域の減衰を急峻にできる一方、位相は非直線的になりやすい。位相特性は群遅延で評価し、通過帯域での群遅延の変動が信号波形に与える影響を把握する。直線位相が本質的に実現しにくいため、波形歪みが致命的な用途では直線位相の設計指標を重視するか、別方式の採用を検討する。安定性は丸め誤差や演算飽和で劣化しうるため、固定小数点では範囲設計が要点となる。
設計法(Butterworth/Chebyshev/Elliptic/Bessel)
古典的なアナログプロトタイプを離散化してIIRフィルタを設計する。Butterworthは通過帯域で平坦、Chebyshevは通過帯域または阻止帯域にリップルを許容して急峻化、Ellipticは両帯域にリップルを許し最も急峻、Besselは群遅延の平坦性を重視する。設計では通過帯域リップル、阻止帯域減衰、遷移帯域幅、位相要件を仕様化し、次数を最小化する。実装前に量子化やスケーリングを前提としたマージン設計を行う。
離散化:双一次変換とインパルス不変
アナログ原型からIIRフィルタを得る代表手法は双一次変換(bilinear transform)とインパルス不変法である。双一次変換は周波数ワープを伴うが折返し歪みを回避でき、仕様周波数を事前ワーピングして設計する。インパルス不変法は時間領域のサンプリングによる離散化で、通過帯域形状を保ちやすい反面、高周波成分が折り返す。クロックやサンプルレートの選定ではオーバーサンプリングを併用して設計余裕を確保する。
実装構造と数値安定性
IIRフィルタの実装はDirect Form I/II、Transposed、カスケードBIQUAD、ラティスなどが用いられる。高次を一括で実装すると係数誤差に不安定になりやすいため、2次節に分解したカスケードが一般的である。固定小数点ではスケーリング、丸め方式、ガードビット、飽和演算を組み合わせ、ダイナミックレンジとSN比を両立させる。係数は感度の高い極付近を優先して精度を割り当てる。
固定小数点と量子化誤差
ディジタル実装では係数量子化、乗算丸め、過渡初期値がIIRフィルタの安定性と歪みに影響する。ノイズ利得を見積もり、BIQUADごとにスケール係数を設定する。実機検証ではインパルス応答、ステップ応答、周波数応答に加え、極・零点の追跡と飽和イベントの計数が有効である。マルチレート系ではデシメーションや補間の段でゲイン調整を伴い、合成応答の一貫性を確認する。
応用例
音響ではトーンコントロール、イコライザ、クロスオーバでIIRフィルタが用いられる。通信ではチャネル選択、ノッチ(干渉抑制)、AGC補助、位相同期系のループフィルタに適用される。計測ではアンチエイリアス後段のディジタル整形、センサのホワイトニングやドリフト除去に活用する。システム全体の遅延や演算量は、必要に応じてCICフィルタや多段構成と組み合わせて最適化する。
FIRとの要点整理
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IIRフィルタは低次数で急峻な特性を得やすい。位相は一般に非線形で、通過帯の群遅延変動を評価する。
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FIRフィルタは線形位相設計が容易で数値安定だが、同等特性には高次数になりやすい。
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用途に応じて遅延、演算量、許容歪み、固定小数点制約を指標化する。
実装時のチェックリスト
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仕様化:通過帯・阻止帯、許容リップル、位相要件、遅延制約を定義する(関連:直線位相)。
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離散化:双一次変換かインパルス不変を選び、サンプルレートとオーバーサンプリングを決める。
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実装:BIQUADカスケードを基本とし、スケーリングと飽和制御を設定する。
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検証:周波数応答、過渡応答、量子化ノイズ、固定小数点の安定性を評価する。
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統合:マルチレート処理やデシメーション段とのゲイン整合を保つ。
ディジタル信号処理の体系では、IIRフィルタは少ない計算資源で設計目標を満たせる有力な手段である。仕様化から離散化、構造選択、固定小数点最適化、検証に至るまで一貫した手順で進めることが、現場での再現性と保守性を高める鍵となる。