伊藤博文
伊藤博文(いとう ひろぶみ)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本の政治家であり、初代、第5代、第7代、第10代の内閣総理大臣を務め、大日本帝国憲法の制定に力を尽くすなど明治国家の礎を築いた。長州藩の足軽の家に生まれながらも、幕末の動乱期に尊王攘夷運動に身を投じ、後にイギリスへの留学を経て開国・和親の必要性を痛感した。明治政府成立後は、明治維新の推進役として、岩倉使節団の一員となり欧米の諸制度を視察した。帰国後は、大久保利通亡き後の指導者として頭角を現し、大日本帝国憲法の起草や内閣制度の創設など、法治国家としての日本の基礎を築き上げた。晩年には韓国統監府の初代統監に就任したが、1909年にハルビン駅で安重根によって暗殺された。
若き日の活動と海外留学
天保12年(1841年)、周防国熊毛県束荷村(山口県熊毛郡大和町)の農民の子として生まれる。伊藤博文は、当初は林利助と名乗っていたが、父の十蔵が長州藩の中間である伊藤直右衛門の養子となったため、「伊藤」姓を名乗ることになる。安政3年(1856)、長州藩が相模国の御備場の警衛を幕府から任されていたため、伊藤博文も参加した。吉田松陰が主宰する松下村塾に学び、尊王攘夷の思想に触れるが、1863年に井上馨らとともにイギリスへ秘密裏に留学した(長州五傑)。ロンドンでの生活は、彼に西洋文明の圧倒的な国力を見せつけ、攘夷の不可能性を確信させる転機となった。帰国後、下関戦争の和平交渉に尽力し、倒幕運動においては木戸孝允らとともに薩長同盟の成立や新政府樹立に向けて奔走した。この時期の経験が、後の伊藤博文のリアリズムに基づいた柔軟な政治手法の源泉となったと言える。
松下村塾
長州藩士来原良蔵から薫陶を受け、松下村塾に入塾して吉田松陰からも学ぶ。
イギリス公使館焼き討ち
文久2年(1862)、高杉晋作・久坂玄瑞らによる品川御殿山のイギリス公使館焼き討ちに参加する。翌文久3年(1863)、井上馨・山尾庸三・遠藤謹助・井上勝と共にイギリスへ密航留学を果たす。しかし、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ艦隊が下関に襲来するという報道に接したことで、長州藩に攘夷の不可能を伝えるために井上馨と共に急遽帰国した。四国艦隊下関砲撃事件の講和交渉では、高杉晋作と共に乗り込み、伊藤博文は通訳として参加した。
明治維新を迎えて
慶応3年(1867)12月、王政復古の大号令によって新政府が誕生した。明治に入り、伊藤博文は外国事務掛や兵庫県知事を歴任し、当初は主に外交部門で能力を発揮した。
明治政府内での台頭と欧米視察
維新後の伊藤博文は、兵庫県知事などを経て政府の中枢へと進出した。1871年には、不平等条約の改正交渉と西洋諸国の制度調査を目的とした岩倉使節団の命全権副使として、アメリカやヨーロッパ各国を歴訪した。この旅を通じて、日本の近代化には成文憲法の制定と官僚機構の整備が不可欠であることを再認識した。
木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通の死去
明治6年(1873)、日本に帰国するが、帰国直後の日本政府内では、西郷隆盛の朝鮮使節派遣をめぐって分裂状態となっており、伊藤博文は朝鮮使節派遣反対・内治優先論を唱える大久保利通側に付いて奔走し、結果的に西郷隆盛の朝鮮使節派遣は延期(実質的に中止)となり、西郷隆盛や西郷派であった板垣退助などが政府を去っていった(明治六年政変)。明治六年政変後、伊藤博文は参議兼工部卿として日本の近代化政策を推進していくことになる。 「維新の三傑」と称された木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通が相次いで亡くなると、明治11年(1878)、伊藤博文は参議兼内務卿として実質的な政府のリーダーシップを握り、官制改革を推し進めた。1881年の「明治十四年の政変」においては、早期の国会開設を主張した大隈重信を追放し、官僚主導による漸進的な立憲制導入の道を選択した。
内閣総理大臣と大日本帝国憲法
明治10年(1877)の西南戦争後、もはや武力行使で日本政府に立ち向かうことが不可能な状態となってくると、国会開設・憲法制定などの主張を言論によって政府に突き付ける「自由民権運動」が活発化していった。日本政府は、明治初期の段階から国会開設や憲法制定に関して調査を行なっていたが、自由民権運動の高まりから、いよいよ本格的に向き合わなければいけない状態となってきた。 明治14年(1881)、即時に国会開設などを主張し、自由民権運動に同調的姿勢を見せた大隈重信が政府を去ることになった(明治十四年政変)あと、政府は9年後の国会開設を布告し、国会開設を政府主導で行うことを約束した。伊藤博文は、明治15年(1882)から翌明治16年(1883)にかけて憲法制度調査のためにヨーロッパに滞在した。帰国後の伊藤博文は、立憲政体に向けて憲法草案や皇室典範草案を作成することになる。明治17年(1884)に華族令の制定に携わり、自らは伯爵となった(最終的に公爵となる)。明治18年(1885)に太政官制度に代わって内閣制度が導入され、伊藤博文は初代内閣総理大臣として第一次伊藤博文内閣を組織した。明治19年(1886)から井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎と共に憲法草案の起草を行ない、明治21年(1888)に完成した。伊藤博文は首相の座を黒田清隆に譲り、新設された枢密院議長となって憲法草案の最終審議に力を尽くした。明治23年(1890)、遂に「大日本帝国憲法」が発布された。
| 就任回数 | 期間 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 第1代 | 1885年 – 1888年 | 内閣制度の創設、大日本帝国憲法の起草 |
| 第5代 | 1892年 – 1896年 | 日清戦争の指導、下関条約の締結 |
| 第7代 | 1898年 | 地租増徴案を巡る対立、短期間での退陣 |
| 第10代 | 1900年 – 1901年 | 立憲政友会の結成、政党政治への歩み寄り |
日清・日露戦争へ
帝国議会開設を果たしたものの、伊藤博文は政府の決定については政党の意思を反映させない「超然主義」に基づいた姿勢を採ろうとした。明治25年(1892)、第二次伊藤博文内閣が発足した。しかし、軍拡政策や条約改正交渉をめぐって民党側の激しい攻勢によって動揺した。条約改正交渉で領事裁判権の撤廃に成功し、日清戦争の講和交渉では陸奥宗光と共に清国の李鴻章と下関で会談した。日清戦後に挙国一致内閣を構想し、板垣退助・大隈重信の入閣によって民党側の懐柔を図ったが、板垣退助の入閣と自由党の与党化のみに留まった。第三次伊藤博文内閣では、退陣する際に大隈重信・板垣退助ら民党側に政権を委譲し、自らも新政党結成に向けた動きを始めた。明治33年(1900)に立憲政友会を結成し、伊藤博文は総裁に就任し、第四次伊藤博文内閣を組織した。しかし、政党に対して反発する山県有朋を中心とする「山県閥」との対立で退陣することになる。この頃の日露関係について、伊藤博文はロシアと協調していく「日露協商」論を唱えてロシアまで赴いたが挫折した。日露戦争の開戦にあたっては慎重な姿勢を崩さなかった。
立憲政友会の結成と政党政治
長らく「超然主義」を掲げ、政党を政府の運営から排除する立場をとっていた伊藤博文であったが、憲法の運用を通じて政党の力の増大を認めざるを得なくなった。1900年、彼は自ら「立憲政友会」を結成し、その初代総裁となった。これは、官僚勢力と政党勢力を融合させることで安定した政権基盤を築こうとする試みであった。同じく長州出身のライバルである山県有朋とは、政軍の関係や大陸政策を巡ってしばしば対立したが、二人は協力して明治後期の国政を支える双璧として機能した。
晩年とハルビンでの最期
1905年、第二次日韓協約の締結に伴い、伊藤博文は初代韓国統監に就任した。彼は韓国の保護国化を進める一方で、急進的な併合には慎重な立場を取っていたとされるが、現地の抵抗運動は激化していった。1909年、統監を辞任して枢密院議長に戻った後、満州問題についてロシア側と会談するためにハルビンを訪れた。同年10月26日、ハルビン駅のホームで韓国の独立運動家・安重根による銃撃を受け、波乱に満ちた生涯を閉じた。享年68。彼の死は、日本の韓国政策が武断的な直接併合へと傾く契機ともなった。
伊藤博文の遺した功績
- 東アジア初の近代憲法(大日本帝国憲法)の制定
- 近代的官僚制度および内閣制度の確立
- 立憲政友会の結成による政党政治の基礎作り
- 日英通商航海条約の締結による領事裁判権の撤廃への貢献
人物像と後世の評価
伊藤博文は、柔軟かつ現実的な政治感覚の持ち主であった。彼は特定の教条に縛られることなく、常に「国家の利益」を最優先に考え、必要であれば昨日の敵とも手を組む器量を持っていた。また、知的好奇心が旺盛で、英語に堪能であり、国際情勢を的確に把握する能力に長けていた。後世の評価においては、専制的な側面が批判されることもあるが、未熟であった日本を急速に近代国家へと脱皮させたその手腕は、世界史的にも高く評価されている。今日の日本の政治・行政機構の根幹には、今なお伊藤博文が築いた枠組みが色濃く残っている。
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