黎朝
黎朝は、1428年にレ・ロイ(Le Loi)が藍山蜂起を成功させて独立王朝を樹立して始まるベトナム中近世の代表王朝である。前期はレ・タイン・トン(聖宗, 在位1460–1497)の中央集権化と法典整備で最盛期を迎え、16世紀前半に一時的に莫氏が簒奪したのち、中興期には鄭氏が北部で王権を擁し、阮氏が南部で台頭して内戦構造が固定化した。18世紀末、西山(タイソン)政権が台頭すると王権は崩壊し、1789年に実質的に終焉した。王朝は儒教秩序と科挙を柱に官僚制と地方統治を再編し、デルタ開発や対外交易の管理を通じて長期安定を指向した点に特色がある。
成立と前期の展開
明の支配に対する抵抗から出発した建国は、軍功に基づく勲臣層を成立させ、続く聖宗期に戸籍・田土・軍政の再編が進む。地方の府県制や検察・監察機構の整備は、王権の直轄力を高め、租税と corvée の均衡化に寄与した。文化面では儒学の振興と科挙の定着により士人層が拡大し、都城タンロン(後のハノイ)は王都として政治・学芸の中心となった。対外的には冊封秩序を前提としつつ自主的統治を維持し、東アジア国際秩序(朝貢)に参与した。
中期:簒奪と中興
1527年、莫登庸の簒奪で王統は断絶し、以後は莫氏・鄭氏・阮氏の抗争が続く。1533年に黎王統が復位して中興期に入るが、実権はトンキンの鄭氏が掌握し、宮廷は名目的主権者となった。南部では阮氏がコーチシナを基盤に勢力を拡張し、両者の長期内戦は地域の経済網や軍制を変容させ、河川・運河開削や新田開発が進んだ。北部の学政は継続し、科挙は社会的上昇の主要ルートであり続けた。
後期と崩壊
18世紀後半、財政窮乏と地方軍閥の自立が進むなか、西山の蜂起が諸勢力を連鎖的に瓦解させた。西山王阮恵(グエン・フエ)は北上して清軍を撃退し、名目上の保護下にあった王権も失われる。のちに阮福暎が阮朝を創建し、王朝交替が確定する。こうして黎朝は、冊封秩序との折衝と内戦管理の時代を経て、地域政治の再編に吸収された。
統治体制と法制
王権は中書・礼部・兵部などの官司を配して文武の分掌を明確化し、科挙により州県級まで官僚を補充した。治田と戸籍の把握によって賦課の基礎を整備し、軍戸・民戸の区別と兵農分離の調整が行われる。都市と農村の統治は里甲制や村落規約を媒介として運用され、地方有力者の動員が制度化された。制度理念は中国王朝からの継受に立脚するが、デルタ社会の慣行や寺社勢力との調停を通じて土着化が図られた。
経済・社会と交易
紅河デルタの治水・新田開発は米作の拡大を支え、塩・陶磁・布の生産と市場流通が発達した。海上では東シナ海の広域ネットワークに接続し、寧波(明州)や華南の港市、室町日本の対外交易(日宋貿易の経験や後代の対明枠組)に連なる往来が行われた。王権は港湾の出入と関税を統制し、冊封・勘合型の枠組みを活用して合法交易を管理した。
文化・学術
科挙の実施は儒教的教養の通用性を高め、朱子学的価値体系が倫理と法の言語を提供した。都城では国子監・文廟が学術の中心として機能し、歴史編纂や法典注釈が進む。書籍・印刷の普及は東アジアの知の循環と呼応し、宋以降の文化的遺産(宋代の文化)が継受された。対モンゴル時代の経験(モンゴル帝国の圧力と交流)や、明初の政策変化(洪武帝の海禁と秩序観)も学術・制度の選択に影響した。
地域秩序と対外関係
王朝は中国との冊封関係を維持しつつ、実効支配と自立性の均衡を追求した。外交は朝貢・回賜の制度枠で展開し、戦役や儀礼・称号の交渉を通じて主権の表象を調整した。周辺諸政権の動向とともに、海域の交通・港湾管理、宗教者・商人の移動が地域秩序を形作った。近年の研究は、王朝の政治経済を東アジア広域史(東アジア諸地域の自立化やベトナム通史、朝鮮半島の展開朝鮮)の文脈で捉え直している。
年表(抄)
- 1428年:レ・ロイ即位、王朝成立
- 1460–1497年:聖宗治下、中央集権と法制整備
- 1527年:莫氏簒奪
- 1533年:黎王統中興、鄭氏が実権掌握
- 17世紀:鄭阮戦争の長期化
- 1789年:西山政権の下、王権崩壊