馬飼部|古代の馬の飼育と管理を担った職業部

馬飼部

馬飼部(うまかいべ/まかいべ)とは、古代日本のヤマト政権において、軍用・交通用の馬の飼育、管理、調教、および馬具の製作などを専門的に担った職業部(部民)のことである。古墳時代中期以降、騎馬文化の導入とともに編成され、古代国家の軍事的基盤や外交、徴税といった広範な公務を支えた重要な組織であった。馬飼部は全国各地に配置され、その管理は有力な伴造(とものみやつこ)を通じて行われていた。

馬飼部の起源と社会的役割

馬飼部の成立は、5世紀から6世紀にかけての古墳時代における大陸からの騎馬技術の流入と深く関わっている。それまでの日本列島には馬を組織的に活用する文化は乏しかったが、朝鮮半島からの渡来人がもたらした飼育技術により、ヤマト政権は強力な騎馬軍団を組織することが可能となった。馬飼部は、この新たな軍事技術を維持するための専門集団として位置づけられ、部民制の一環として整備された。彼らは単なる家畜の世話役に留まらず、国家の機動力そのものを管理する重要な社会的役割を担っていたのである。

職掌と管理体制

馬飼部の具体的な職掌は、馬の繁殖から調教、そして有事の際の徴用まで多岐にわたる。これらは「馬司」や「馬寮」といった後の官制の基礎となった。馬飼部の管理は、各地方に置かれた牧(まき)を中心に行われ、以下のような階層構造や区分が存在していた。

  • 牧長:各地域の牧を統括し、馬飼部に指示を出す責任者。
  • 馬飼:実際に馬の飼育や訓練、健康管理を行う実務者。
  • 馬具制作部:鞍や轡(くつわ)などの馬具を専門に製作する集団。
  • 舎人:有力な王族や豪族の近辺で馬の世話をする選ばれた馬飼部

これらの組織的な管理により、ヤマト政権は常に質の高い軍馬を確保することができた。

技術的背景と渡来人の関与

馬飼部の技術基盤を支えたのは、主に百済や加耶(任那)から渡来した「身狭村主(むさのすぐり)」や「鞍作部(くらつくりべ)」といった渡来系氏族である。彼らは高度な獣医学的知見や鍛造技術を伝承しており、馬飼部の教育や指導にあたった。こうした渡来文化との結びつきは、当時の氏姓制度においても顕著であり、馬飼部を管掌する伴造には渡来系氏族や彼らと密接な関係を持つ豪族が任じられることが多かった。結果として、馬飼部は当時の最先端技術が集約されたハイテク集団としての側面も持っていたのである。

豪族との政治的関係

馬飼部の管掌権は、ヤマト政権内部における豪族たちの権力争いの対象ともなった。初期には軍事を司る物部氏が馬飼部を強く統制下に置いていたが、後に政権の中枢を担った蘇我氏もまた、交通や経済的利権の観点から馬飼部への影響力を強めた。このように、馬飼部が管理する馬匹資源を誰が掌握するかは、軍事的な優位性を確保する上で極めて重要な政治的課題であった。特に飛鳥時代にかけての政争においては、馬飼部の動向が政局を左右することも少なくなかった。

律令制への移行と官制化

大化の改新を経て律令制が確立されると、それまでの部民としての馬飼部は解体・再編され、国家官制としての「左馬寮・右馬寮」へと統合されていった。個人や特定の氏族に属していた馬飼部は、国家公務員的な立場へと変化し、全国の牧は官牧として整備された。この移行期においても、馬飼部が培ってきた飼育技術は尊重され、専門職としての地位は維持された。律令国家はこれにより、組織的な馬匹管理をより広範囲かつ効率的に実施する体制を整えたのである。

馬飼部に関連する史料と実態

馬飼部に関する記述は、『日本書紀』や『古事記』などの記紀のほか、各地の風土記にも散見される。例えば、摂津国や河内国には馬飼部に由来する地名が多く残っており、当時の飼育拠点がどこに存在したかを推測する手がかりとなっている。また、出土する馬形埴輪や馬具の精巧さは、馬飼部が高い技術力を保持していたことを物語っている。以下の表は、主要な馬飼部の配置例をまとめたものである。

地域 管理氏族 主な役割
河内国(四條畷付近) 馬飼首 中央への馬供給と渡来系技術の伝承
信濃国 科野国造 広大な牧を利用した大規模な馬匹生産
筑紫国 筑紫氏 国防上の要衝における軍馬の育成

現代に伝わる名称と名残

馬飼部の名称は、後に「真壁(まかべ)」や「間壁」といった姓氏へと変化した例が見られる。これらは中世以降、武士団として存続したり、地域の名主として定着したりしたケースが多い。かつて馬を管理した専門職の記憶は、地名や苗字という形で現代の日本社会にも息づいている。馬飼部という組織は消滅したが、彼らが築いた日本の馬文化と交通網の基礎は、その後の中世武家社会の発展に不可欠な前提条件となった。