非暴力不服従運動(第1次)|インド独立運動の転機

非暴力不服従運動(第1次)

非暴力不服従運動(第1次)は、1919年から1922年にかけてマハトマガンディーが主導した反英闘争であり、暴力を用いずに植民地支配へ抵抗することでインドの自治・独立を目指した大衆運動である。第一次世界大戦後の厳しい植民地統治と戦後約束の反故、そして第一次世界大戦期の戦争協力への失望を背景に、不買・不納税・官職辞退などの手段を通じてイギリスの支配政体を麻痺させようとした点に特徴がある。

歴史的背景

第一次世界大戦中、イギリスはインドの協力と引き換えに戦後の自治拡大を約束したが、戦後も植民地支配はほとんど緩和されなかった。むしろ、治安維持名目で弁護士ローラットの名を冠したローラット法が制定され、令状なし逮捕や長期拘禁が可能となり、自由は大きく制限された。さらにアムリットサールでの大虐殺は、イギリスへの信頼を決定的に失わせ、穏健的な議会内改良路線から、広範な大衆が参加する抵抗運動へと舵を切らせる契機となった。このような状況下でガンディーは、道徳的優位を保ちながら支配に揺さぶりをかける方法として非暴力不服従運動(第1次)を構想したのである。

ガンディーの思想と運動理念

ガンディーは、サティヤーグラハ(真理把持)と呼ばれる独自の非暴力思想を提唱し、正義と真理に反する権力には服従せず、しかし相手を憎まずに抵抗するべきだと説いた。彼にとって、支配者への暴力は支配の論理を内面化する行為であり、道徳的敗北を意味した。そのため、帝国主義支配に対抗しつつ、人間の尊厳と道徳性を守るための手段として非暴力不服従運動(第1次)が位置づけられた。この思想は、宗教的多様性に富むインド社会において共感を呼び、ヒンドゥー教徒・イスラーム教徒・シク教徒などを幅広く結びつける理念的基盤となった。

具体的な不服従の方法

  • イギリス製綿布や塩など、輸入品・工業製品の不買運動
  • 政府が設立・管理する学校や裁判所のボイコット
  • 官吏や警察官など植民地支配を支える役職の辞任・就任拒否
  • 地方議会選挙への不参加や、政府主催の儀式のボイコット
  • 家庭での糸つむぎや自給自足的生産の推奨

これらの手段は、直接的な暴力を伴わずに行政・経済を麻痺させ、支配の正当性を掘り崩すことを狙ったものであった。同時に、家庭で糸車を回すことなどは、大衆が日常生活の中で運動に参加する入口ともなり、独立を目指す民族運動の象徴的行為として重視された。

大衆動員と運動の広がり

非暴力不服従運動(第1次)は、インド国民会議派を中心に展開されたが、その影響は農村部や都市の労働者層にも広がった。農民は地税や地代の軽減を求めて年貢不払いを試み、都市の商工業者はイギリス商品の不買に協力した。イスラーム教徒のカリフ制擁護運動と結びついたことで、宗教を超えた連帯が生まれた点も重要である。こうして、これまで限定的であったエリート主導の政治運動から、農民・労働者・中産層を巻き込む大衆的なナショナリズムへと質的転換が起こった。

チャウリチャウラ事件と運動の終結

しかし、全国的な高揚の中で常に非暴力が守られたわけではない。1922年、北インドのチャウリチャウラで、抗議デモ隊と警官隊の衝突から警察署焼き討ち・警官殺害事件が発生した。ガンディーはこれを重く受け止め、非暴力の原則が実践できない状況では運動を続けるべきではないと判断して、非暴力不服従運動(第1次)の停止を宣言した。この決定は多くの支持者を失望させたが、ガンディーにとっては道徳的首尾一貫性を守るために不可欠であり、運動全体を暴力の連鎖に巻き込まないための苦渋の選択でもあった。

意義とその後への影響

運動は途中で中止されたものの、植民地支配に対する抵抗の仕方を大きく変えた点で歴史的意義は大きい。第一に、農村と都市、各宗教・地域を横断する規模で民族運動を組織し、イギリス統治が道徳的正当性を欠くことを世界に印象づけた。第二に、非暴力を掲げることで、植民地側が「秩序維持」の名で暴力を正当化する論理に挑戦し、支配と抵抗の力関係を新たな次元へと押し上げた。第三に、この経験は後の塩の行進をはじめとする第二次非暴力不服従運動の土台となり、インド独立への長期的な過程の第一段階を成した。こうして非暴力不服従運動(第1次)は、単なる一時的抗議にとどまらず、近代世界における非暴力抵抗の典型例として、他地域のナショナリズム運動にも大きな影響を与えることになったのである。