青苧座
青苧座(あおそざ)は、中世日本において、衣料の主要な原料であった「青苧(あおそ・アオマ)」の独占販売権を保持していた商人の同業組合(座)である。青苧は苧麻(カラムシ)の皮からとれる繊維であり、麻織物の原料として、庶民の日常着から武士や貴族の直垂、帷子にいたるまで幅広く利用されていた。特に越後国は日本最大の産地として知られ、そこから産出される青苧は質・量ともに圧倒的であり、京都や堺といった中央市場において極めて高い経済価値を有していた。このため、青苧座は単なる商人の集団にとどまらず、権門勢家や守護大名、さらには室町幕府の権力構造と密接に結びついた、中世経済の縮図ともいえる組織であった。
青苧座の成立と本所の権益
青苧座が歴史の表舞台に明確に現れるのは鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてである。この組織を背後で支え、公認の独占権を与える見返りに役料(税)を徴収していたのが「本所」と呼ばれる権門である。特に京都の公家である三条西家は、青苧座の本所として強力な支配権を行使したことで知られている。三条西家は、越後から京都へ運ばれる青苧の流通経路において、関銭の免除や他者の参入禁止といった特権を保障し、その見返りとして座の商人から多額の「座役」を受け取っていた。
この特権体制は、中世の座の典型的な形態であり、生産地から消費地までの流通過程を垂直的に支配するものであった。当時の青苧流通は以下のような構造を持っていた。
- 越後国の生産地において、現地の土豪や商人が青苧を集荷する。
- 日本海の水運を利用して敦賀や小浜へ運ばれ、そこから陸路を経て琵琶湖の坂本や大津に到達する。
- 坂本・大津の商人が京都の青苧座に荷を送り、座商人が京都内の小売や加工業者に卸売を行う。
越後長尾氏と生産地の管理
青苧の供給源であった越後国では、守護代の長尾氏が生産と出荷の管理に深く関与していた。長尾氏は、領内の農民に青苧の栽培を奨励し、それを集積して京都へ送り出すことで、領国経済の基盤を固めた。特に戦国時代の幕開けとともに、長尾為景やその子である上杉謙信(長尾景虎)は、青苧座を通じた利益を軍資金や中央政界への工作資金として活用した。上杉氏にとって、青苧の売上は、日本海貿易における交易品としての価値と並び、領国経営を支える最大の柱の一つであった。
しかし、生産地側の実力者である長尾氏と、中央の権益を握る三条西家の間にはしばしば対立が生じた。長尾氏は自領の利益を最大化するため、三条西家の指定したルートを通さずに青苧を販売しようと画策し、これに対して三条西家は室町幕府の権威を借りて、従来通りの青苧座を通じた流通を強制しようとした。このような「産地」と「市場」の主導権争いは、中世から戦国時代への過渡期における権力構造の変化を如実に示している。
流通拠点としての坂本と大津
青苧の流通において、近江国の坂本や大津は極めて重要な拠点であった。これらの港町には、青苧を扱う専属の問屋や商人が居住しており、彼らもまた青苧座の一部、あるいは密接な協力関係にある組織として機能した。特に比叡山延暦寺の門前町であった坂本は、宗教権力の保護下で強力な自治権と特権を誇っており、ここを通過する青苧には独自の課税が行われていた。
京都の青苧座商人は、坂本の商人(坂本座)と時に連携し、時に競合しながら、青苧の価格決定権を握っていた。越後から運ばれてきた大量の青苧は、大津の問丸(といまる)によって一時保管され、そこから京都の四条や五条にある座の拠点へと運ばれた。この複雑な中継貿易の過程で、各拠点の商人や背後の権力者がマージンを得る仕組みが成立しており、青苧はまさに「動く金」として扱われていた。
座の特権と新興商人の台頭
室町時代後期になると、既存の青苧座の独占に挑戦する新興の商人が現れるようになった。彼らは「座外」の商人として、密かに越後の生産者と交渉し、安い価格で青苧を仕入れて京都以外の地方市場へ流した。これに対し、青苧座は本所である三条西家を通じて、幕府に「違乱停止(いらんちょうじ)」を求めた。違乱停止とは、座の特権を侵害する行為を禁じる命令であり、中世の特権経済を維持するための法的な武器であった。
戦国大名による統制への移行
戦国時代が本格化し、中央の室町幕府や公家の力が衰退すると、青苧座の性格も大きく変容した。各地に割拠した戦国大名たちは、自領の経済を自ら統制することを目指し、従来の公家を本所とする座のシステムを解体、あるいは自らの配下へと組み込んでいった。越後においても、上杉氏が直接的に青苧の流通を管理するようになり、京都の青苧座へ支払われていた役料は、大名自身の懐へと入るようになった。
さらに、織田信長や豊臣秀吉による楽市・楽座の政策は、中世以来の独占的な座の仕組みに決定的な打撃を与えた。市場の自由化が進む中で、特定の家系や商人が特権を独占する青苧座は、次第にその歴史的役割を終えていくことになる。しかし、越後における青苧生産そのものは江戸時代以降も続き、米沢藩の上杉氏が「御用品」として厳格に管理するなど、形を変えてその重要性を維持し続けた。
青苧座の盛衰は、日本の中世社会が「荘園公領制」に基づく権門支配から、大名による一円支配、そして近世の統一政権へと移行していく過程を、経済的な側面から鮮明に描き出している。その活動は、衣食住の根幹を支える物資がいかにして権力と結びつき、社会の骨組みを形成していたかを物語る貴重な事例といえる。