辛亥革命
辛亥革命は、清末の政治的・社会的危機の中で勃発し、アジアで最初の共和国である中華民国を樹立して、約2千年続いた君主制を終焉させた中国の大規模な政治革命である。西暦1911年(清の宣統3年、干支の辛亥年)に武昌での蜂起を契機として各省が次々に独立を宣言し、最終的に清朝皇帝溥儀が退位することで、満洲王朝であった清朝が崩壊し、近代中国国家の出発点が画された。
清朝末期の危機と改革
19世紀半ば以降、清朝はアヘン戦争や太平天国の乱など内外の衝撃に揺さぶられた。とくに1894年の日清戦争の敗北と、1900年前後の義和団事件を通じて列強への従属が強まり、領土・関税・治外法権などの面で半植民地化が進んだ。これに対し、清政府は洋務運動や戊戌変法、さらに新政と呼ばれる立憲化準備などの改革を試みたが、宮廷保守派と地方勢力の抵抗、財政難や列強の干渉によって抜本的な体制転換には至らず、民衆や知識人層の不満は蓄積していった。
革命運動の展開と孫文
こうした状況のもとで、中国の知識人や海外華僑の間では、君主制を打倒し共和国を樹立しようとする革命運動が広がった。その中心人物がハワイや日本で募金と宣伝活動を行った孫文であり、彼は「民族・民権・民生」からなる三民主義を掲げて革命の理念を体系化した。1905年、孫文は東京で中国同盟会を結成し、武装蜂起による清朝打倒を目指して複数の反乱を企図した。これらの試みは多くが失敗に終わったものの、留学生や新軍将兵、商人・労働者など都市の新興勢力に革命思想を浸透させ、のちの辛亥革命の人的・思想的基盤を形づくった。
武昌起義と各省の独立
1911年10月10日、湖北省武昌で新軍兵士や革命派が蜂起し、これが辛亥革命の直接の発端となった。鉄道国有化政策をめぐる利権争いと地方士紳の反発は、革命派にとって大規模な不満を組織化する好機となり、武昌の成功は湖南・陝西・江西など長江流域から内陸諸省へと波及していく。各省では軍政や都督府が樹立され、清廷からの独立を次々に宣言したことで、中央集権的な清朝の支配構造は急速に瓦解した。これに対し北京の朝廷は鎮圧のため北洋軍を動員したが、地方軍事力の自主性が高まり過ぎていたため、統一的な対応をとることは困難であった。
武昌起義の特徴
武昌起義は、同盟会系の地下組織と新軍内部の革新的士官・下士兵とが結びついた点に特徴がある。当初は秘密結社の爆弾誤爆をきっかけとする突発的な蜂起であったが、蜂起後には地方エリートや商人層が加わり、また都市の民衆も清朝支配への不満からこれを支持した。ここでは、列強の勢力が集中する沿岸部ではなく内陸の軍事拠点都市から体制崩壊が始まったという、20世紀の革命史の中でも特異なパターンがみられる。
中華民国の成立と清朝滅亡
各地の独立運動の高まりを受けて、革命派は南京に臨時政府を樹立し、1912年1月、孫文が臨時大総統に就任して共和国の成立を宣言した。しかし北方の強力な軍事勢力である北洋軍を掌握する袁世凱は、依然として清廷側の切り札であり、革命派だけで全国を統一することは困難であった。そこで孫文は政権移譲と引き換えに清朝皇帝退位を袁世凱に働きかけ、袁も自らの政権掌握を条件としてこれを受け入れた。1912年2月、宣統帝溥儀が退位詔書を出し、約260年続いた清朝の支配は正式に終わり、形式上は共和政体への平和的移行が実現した。
袁世凱政権と辛亥革命の限界
清朝崩壊後、北京を拠点とする臨時政府の大総統となった袁世凱は、北洋軍を背景に権力集中を進め、議会や政党を軽視する独裁的傾向を強めた。孫文らが組織した国民党は立憲政治と議会主義を通じた民主共和国の実現をめざしたが、袁はこれを弾圧し、ついには自ら皇帝即位を企てて失敗する。こうして辛亥革命が掲げた共和国・民権の理念は十分には実現されず、中国は各地の軍閥が割拠する混乱期へと移行した。それでもなお、君主制廃止と主権在民の理念は、のちの五四運動や国共内戦を通じて近代中国の政治発展を規定し続けることになった。
東アジアと世界史における意義
辛亥革命は、アジアで初めて大帝国の君主制を打倒して共和国を樹立した事件として、世界史的な意義を持つ。これは単に一王朝の交代ではなく、科挙の廃止や近代的議会制度の導入を通じて、伝統的身分秩序や天下観を根底から問い直す契機となった。また、その過程で掲げられた三民主義や民族自決の思想は、近隣地域のナショナリズムにも影響を与え、日本の明治維新やロシア革命などと並んで東アジアの近代化と植民地体制の動揺を理解するうえで不可欠な出来事である。こうして辛亥革命は、共和制導入という短期的成果だけでなく、長期的には中国社会の国家像・人民像を変容させる出発点として位置づけられる。