謡
謡(うたい)とは、日本の伝統的な舞台芸術である能および狂言において、演者が口に執る声楽部分を指す総称である。主に能の詞章(台本)を節に乗せて歌うことを意味し、楽器による伴奏である「囃子」と共に能楽の音楽的根幹を成している。謡は、物語の情景描写や登場人物の心情を表現する役割を担い、独立した芸能としても享受されてきた。古くは「謡いもの」として雅楽や白拍子の流れを汲みつつ、室町時代に観阿弥・世阿弥親子によって大成された。現代においても、舞台での上演だけでなく、素謡(すうたい)と呼ばれる伴奏なしの歌唱形式で広く親しまれている。
謡の歴史と成立
謡の起源は、平安時代から鎌倉時代にかけて流行した「今様」や「宴曲」といった歌謡にあるとされる。これらが寺社芸能である猿楽と結びつき、劇的な要素を持つ声楽へと進化を遂げた。特に室町時代初期、観阿弥が当時の流行歌であった「曲舞(くせまい)」の独特なリズムを謡に取り入れたことで、音楽的な飛躍を遂げた。その息子である世阿弥は、さらに芸術性を高め、幽玄という美的理念を反映させた洗練された謡の形式を確立した。江戸時代に入ると、謡は徳川幕府の儀礼曲(式楽)として重用され、武士の必須教養となった。この時期に各流派の芸風が固定化され、現在に続く家元制度の基盤が作られたのである。
謡の構成要素:詞と節
謡のテキストは「謡曲」と呼ばれ、大きく分けて「詞(ことば)」と「節(ふし)」の2つの形式で構成されている。「詞」は、物語のセリフ部分であり、旋律を伴わない抑揚のついた語り口が特徴である。一方、「節」は旋律を持つ歌唱部分であり、さらに音階やリズムの取り方によって細かく分類される。謡の音階は、西洋音楽のような絶対的な音高を持たず、演者の声域に合わせた相対的な音程で歌われる。基本的な音階として「上(じょう)」「中(ちゅう)」「下(げ)」の三位があり、これに「栗(くり)」や「刺(さし)」といった装飾的な技法が加わることで、豊かな表現力が生み出される。
拍子とリズムの体系
謡のリズム体系は、八拍を基本単位とする「八拍子(やつびょうし)」に基づいている。しかし、その乗せ方は非常に独特であり、詞の文字数と拍の関係によって以下の3種類に大別される。
- 平ノリ(ひらのり):七五調の詞を八拍に乗せる最も標準的な形式。独特のシンコペーションが生じる。
- 中ノリ(ちゅうのり):一拍に二文字を当てるスピード感のある形式。主に修羅能の合戦シーンなどで用いられる。
- 大ノリ(おおのり):一拍に一文字を当てる重厚でゆったりとした形式。神仏の降臨やクライマックスで多用される。
強吟と弱吟
謡の歌唱法には、「強吟(つよぎん)」と「弱吟(よわぎん)」という2つの対照的なスタイルが存在する。これらは曲の雰囲気や役柄によって使い分けられる。
| 分類 | 特徴 | 主な用途 |
|---|---|---|
| 強吟 | 腹の底から響かせる力強い発声。音程の変化よりも音勢の強弱を重視する。 | 神、勇猛な武将、荒ぶる霊などの表現。 |
| 弱吟 | 柔和で優美な旋律を持つ。音階の上下が明確で、音楽的な旋律美が強調される。 | 天女、美女、貴公子などの繊細な表現。 |
謡の五流派
現代の能楽界において、謡の伝承を担っているのは「五流」と呼ばれる主要な流派である。各流派は、伝統芸能としての型を守りつつ、それぞれ独自の節回しや芸風を持っている。
- 観世流(かんぜりゅう):最大派閥であり、華やかで洗練された芸風が特徴。
- 宝生流(ほうしょうりゅう):重厚で格調高く、「重宝生」と称される独特の節回しを持つ。
- 金春流(こんぱるりゅう):古風で素朴な味わいを残し、独特のリズム感を有する。
- 金剛流(こんごうりゅう):華麗な舞と、明快な謡が特徴。「舞金剛」とも呼ばれる。
- 喜多流(きたりゅう):江戸時代初期に創設された比較的新しい流派。武士らしい剛毅な気風を持つ。
謡本と稽古の文化
謡を学ぶためのテキストは「謡本(うたいぼん)」と呼ばれる。謡本には、歌詞の横に「ゴマ点」という独特の記号が記されており、これが音の高さや長さ、強弱を示す楽譜の役割を果たしている。江戸時代には、町人の間でも謡の稽古が流行し、それが狂言のパロディを生むなど、大衆文化にも大きな影響を与えた。現代においても、健康増進や発声練習、日本文化への理解を深める目的で、多くの愛好家が謡の稽古に励んでいる。
まとめ
謡は、単なる劇中歌の枠を超え、日本語の持つ響きやリズムを最大限に活用した高度な声楽芸術である。その独特の発声法や精神性は、他の日本の伝統音楽の基盤となっており、現代においても不変の価値を持ち続けている。