言語ゲーム|言語とそれが織りこまれた諸活動との総体

言語ゲーム

言語ゲームとは、20世紀の哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによって提唱された言語のありかたをあらわす概念であり、『論理哲学論考』においてみずから提唱した論理学を覆した。日常でなされる会話は、論理学が分析する言語のように明晰なものではなく、曖昧でさまざまな層をふくみ、言語を多様な「活動の一形態」として理解しようとした。

ウィトゲンシュタイン

ウィトゲンシュタイン

背景と初期哲学からの転換

ウィトゲンシュタインは初期著作『論理哲学論考』において、言語とは世界の事実を写し取る写像であると論じた。すなわち、文の構造が世界の構造と対応し、意味は対象との一対一対応にあると考えた。しかしこの見解では、日常の言語使用の多様性や柔軟性をうまく説明できなかった。そのため彼は後年、言語の役割や使われ方に注目するようになり、言語を固定的な記号体系ではなく、生活の中の「行為」に近いものと捉えるようになった。

言語ゲームの定義

言語ゲームとは、日常会話に使用されている言葉の分析であるが、その定義は非常に曖昧であり、曖昧性を示すためにもゲームという概念が使われた。ゲームであるかぎり、ルールがその前提にあるが、ゲームがいろいろな種類(トランプやビリヤード、野球)があるように、日常会話もまた、多くの種類をもっている。

ゲームの多様性

ゲームの多様性

わたしはまた、言語とそれが織りこまれた諸活動との総体をも言語ゲームと呼ぶ」(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』七節)

生活形式

言語ゲームは、日常会話を分析するのだから、当然、生活形式に根ざしており、日常から離れたものではない。言葉を話すという行為は特別なものでなく、その他多くの行為と同様、自然史に属している。言語の独自の領域ではあるが、事実と接しており、万人の生の営みに浸透している。

ここで「言語ゲーム」ということばを使ったのは、言葉を話すということが、ひとつの活動や生活形式の一部であることを、はっきりさせるためなのだ」(『哲学探究』二十三節)

「命令し、問い、話し、喋ることは、歩いたり、食べたり、飲んだり、遊んだりすることと同じように、われわれの自然史に属している」(『哲学探究』二十五節)

用法によって意味が決まる

ウィトゲンシュタインの重要な主張の一つは、「意味とは用法である(The meaning of a word is its use in the language)」である。つまり、ある語の意味は辞書的定義にあるのではなく、人々がその語をどのように用いるかによって決まる。たとえば「ゲーム」という語一つ取っても、囲碁、野球、トランプなど多様な活動に用いられるが、すべてに共通する本質を定義することは困難である。このような語の意味は「家族的類似性」に基づいており、言語全体も同様に柔軟な構造を持つ。

家族的類似性

言語ゲームがもつ特性を、家族になぞらえて「家族的類似性」と呼んだ。通常、生活で行われるゲーム、たとえばオセロやテニス、トランプ、野球はゲームの道具、人数、勝敗の有無、場所など、それぞれ多くの要素があるものの、一貫した共通の性質はなく、非常に幅広くゆるやかなくくりである。それぞれのゲームが、類似しあい、あるいは異なっているなかでゲームと名付けられている。われわれの日常の言語ゲームもまた同様のものである。ウィトゲンシュタインはこの言葉の広さを家族間が大まかに似ていることになぞらえ、相互の関係で緩やかにくくられた集合体のことを家族的類似と呼んだ。

家族的類似

家族的類似

第二節における語の使用(少ない語による命令のゲーム引用者)の全過程を、子供が自分の母語を学びとるゲームのひとつだ、と考えることもできるだろう。わたしは、こうしたゲームを「言語ゲーム」と呼び、ある原初的な言語を、ときに言語ゲームとして語ろうと思う。

教育・コミュニケーションへの示唆

言語ゲームは、教育やコミュニケーションの現場でも重要な示唆を与えている。学びとは、知識の伝達というより、ある共同体の中で言語ゲームを習得するプロセスともいえる。子どもが言葉を覚えるとき、それは単に語彙を蓄積するだけではなく、その語がどのような文脈で使われるのかという「使い方」を学んでいる。つまり教育とは、新しい言語ゲームへの参加方法を学ばせる過程である。

多様な言語ゲームと文化相対性

言語ゲームの枠組みは、文化的背景や時代によって異なるルールや価値観が存在することを説明する上でも有効である。たとえば、宗教的な祈りと科学的説明は、同じ言語を使っていても全く異なるゲームに属しており、同じ基準で評価することはできない。これは、相手の「ゲームのルール」を理解することの重要性を示唆しており、多文化共生や異なる価値観との対話にも応用可能である。

言語の遊びと哲学の変化

ウィトゲンシュタインにとって、哲学とは問題の解決ではなく、言語の混乱を整理し、人々が陥りがちな誤解を取り除く作業である。彼は哲学を病の治療のようなものと捉え、言語の正しい使い方を示すことで思考を澄ませようとした。このアプローチは分析哲学や言語哲学に強い影響を与え、現代思想の基礎的な立場の一つとなっている。

プラトンの否定

言語ゲームにおいてプラトンが唱えたイデア論が否定される。絶対的で理想的な正義のイデアといったようなものはなく、あるのは正義と呼ばれる様々な事象だけであり、それらはすべてに共通する正義ではなく、我々は、様々な個々の事象を、家族的類似でなされている中で緩やかなくくりの中で正義と呼んでいる。

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