第三共和政憲法
1870年の第二帝政崩壊後に成立したフランス第三共和政憲法は、1875年に国民議会で可決された3本の「憲法制定法」から成る政治体制の基本法である。単一の成文憲法典ではなく、複数の法律が組み合わさって憲法秩序を構成している点に特色がある。この憲法は、普仏戦争の敗北と第二帝政の崩壊という危機のなかで、王制復古を望む勢力と共和派の妥協として生まれ、1940年に至るまでフランスの国家構造を規定し続けた長命な憲法である。
成立の背景
1870年、スダンの戦いでナポレオン3世が捕虜となり第二帝政が崩壊すると、パリでは臨時政府として国防政府が樹立された。だが戦局は好転せず、パリ包囲や講和をめぐる対立から1871年にはパリ=コミューンが成立し、内戦状態に陥る。こうした混乱を収拾するため選出された国民議会では、当初、ブルボン家やオルレアン家による王制復古を志向する君主派が多数を占めていた。しかし王位継承をめぐる調整が難航したことや、地方を中心とする共和派の伸長により、妥協的な形で共和政を前提とする体制設計が進んでいった。その過程を主導したのが、共和派寄りの政治家ティエールであり、彼の後を継いだマクマオン大統領の下で第三共和政憲法の枠組みが固められていったのである。
憲法制定の過程
1871年に選出された国民議会は、講和条約の締結と政体の決定という二重の課題を負っていた。君主派は王制復古を意図していたが、王位候補の内紛や国民世論の変化から、即時の王政復活は困難になっていく。こうしたなかで1875年、議会は「元老院組織法」「公権力組織法」「関係諸法の改正に関する法」の3法を可決し、これらが総称として第三共和政憲法と呼ばれるようになる。これらの憲法制定法は、国家元首としての大統領、二院制議会、議院内閣制的な責任政府といった基本構造を定めたうえで、将来の政治的力関係に応じて解釈・運用の余地を残す、妥協の産物であった。1879年に共和派が上院・下院・大統領職を掌握すると、政党政治の進展とともに憲法は明確に共和政の枠組みとして定着していく。
統治機構の特徴
第三共和政憲法の統治機構は、王制復古を警戒する共和派と、急進的民主主義を恐れる保守派との均衡を図る構造をとっていた。国家元首である大統領は両院合同会議によって選出され、形式上は広い権限を与えられていたが、議会多数派との協調なしにはその権限を十分に行使できなかった。他方、議会は下院にあたる代議院と上院にあたる元老院からなる二院制であり、特に元老院には保守的な地方名望家層の意向が強く反映されていた。このため制度上は権力分立が図られていたものの、実際には議会多数派に依拠する内閣が政治の中心となり、議院内閣制的な運営が進んでいった。
- 両院で構成される強力な議会
- 議会多数派に依拠する責任内閣
- 権限はあるが実際には弱い大統領
議会政治と政党システム
このような制度の下で、フランスの政党政治は次第に発展した。共和派内部では穏健共和派と急進共和派が競合し、保守派とのあいだでは政教分離問題や軍事・外交政策をめぐって激しい論争が展開された。たとえば第三共和政期にはブーランジェ事件やドレフュス事件など、政党間対立と世論の分裂を象徴する出来事が相次いだが、それでもなお議会を通じた政権交代の枠組みは維持され、共和政そのものは存続したのである。
権利・自由と政教関係
第三共和政憲法自体は、1789年の人権宣言のような包括的権利章典を再掲してはいないが、共和派政権のもとで言論・出版・集会・結社の自由が段階的に拡大され、市民的自由が現実の制度として整備された。また、カトリック教会との関係では、教育制度の世俗化や宗教的特権の縮小が進められ、最終的には1905年の政教分離法につながっていく。こうした流れは、第二帝政期の海外進出やスエズ運河建設などと並び、近代フランス国家の性格を形づくる重要な要素であった。
第三共和政憲法の歴史的意義
第三共和政憲法は、1848年革命後の短命な第二共和政や皇帝支配の第二帝政と比べ、約65年間にわたる長期政体を実現した点に大きな意義がある。内閣の短命や政党の分裂など、いわゆる「不安定な議会政治」という弱点を抱えつつも、共和国という枠組み自体はクーデタではなく議会の投票によって維持され続けたのである。この経験は、ヨーロッパにおける代議制民主主義の一つのモデルとして評価され、後の諸国の憲法や政治制度にも影響を与えた。他方で、1940年にドイツ軍の侵攻とともに議会が自ら権限を放棄し、ヴィシー体制を成立させた事実は、議会至上主義と政党分裂が危機時にどこまで民主主義を守り得るのかという問題を提起した。こうして第三共和政憲法は、近代フランスのみならずヨーロッパ政治史における、民主主義の可能性と限界を示す制度として位置づけられている。