スダンの戦い
スダンの戦いは、1870年9月2日に北フランスのスダン付近で行われた普仏戦争の決定的な会戦であり、フランス皇帝ナポレオン3世がプロイセン王ヴィルヘルム1世に降伏した戦いである。この敗北によってフランス第二帝政は崩壊し、代わって第三共和政が成立するとともに、プロイセンを中心とするドイツ統一が一気に進展する契機となった。
背景
普仏戦争は、プロイセン首相ビスマルクが主導したドイツ統一政策と、フランス第二帝政の勢威維持が衝突して勃発した。エムス電報事件をきっかけに開戦した戦争は、序盤からプロイセン軍とドイツ諸邦軍が優勢で、ヴァイセンブルクやヴォルツなどの会戦でフランス軍は敗北を重ねた。マクマオン将軍率いるフランス軍は、包囲されつつあるメスのバザン軍を救援しようとして北上した結果、プロイセン軍の側面攻撃を受け、スダン周辺で不利な地形に追い込まれた。このようにしてスダンの戦いは、フランス軍の連敗と戦略的後退の帰結として生じたのである。
戦いの経過
プロイセン軍の包囲
スダンに入ったマクマオン軍は兵力こそ多かったが、丘陵と森林に囲まれた盆地状の地形に展開し、退路は限られていた。一方、プロイセン軍とドイツ諸邦軍は優位な火力と組織力を背景に、外周から円弧状に布陣し、砲兵を高地に配置してフランス軍を砲撃した。近代的な後装砲と参謀本部による統制は、すでに普仏戦争全体で威力を示しており、スダンでもその強みが発揮された。
フランス軍の混乱と降伏
フランス軍は反撃を試みたものの、射程と装填速度で勝るプロイセン歩兵銃・砲兵火力の前に大きな損害を受け、騎兵突撃も効果をあげられなかった。やがて市街地や陣地は砲撃に晒され、民間人の被害も増加した。皇帝ナポレオン3世自身が戦場近くにいたこともあり、戦況の悪化は政体存続の危機と直結した。包囲が完成し、弾薬・食料ともに枯渇しつつあったため、ナポレオン3世は全面降伏を決断し、皇帝自らがプロイセン側に出頭して降伏文書に署名した。この瞬間、スダンの戦いはフランス軍の壊滅的敗北として終結した。
結果と歴史的意義
スダンでの降伏は、フランス第二帝政の権威を一挙に失わせた。パリでは共和派が蜂起し、第二帝政は崩壊して第三共和政が宣言される。戦争自体は継続し、やがてパリ包囲戦を経てフランスは講和に追い込まれるが、その過程でアルザス・ロレーヌの割譲が行われ、長期にわたるフランスの対独敵視感情の要因となった。また、プロイセン王国はこの勝利を足がかりに、1871年にヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立を宣言し、ドイツ統一を達成する。ウィーン体制以来のヨーロッパ勢力均衡は崩れ、プロイセンを継承したドイツが大陸の新たな強国として台頭したのである。
ヨーロッパ国際関係への影響
- フランスの国際的威信失墜と、復讐(レヴァンシュ)の感情の形成
- プロイセン中心のドイツ統一達成と、列強間の力関係の再編
- アルザス・ロレーヌ問題をめぐる仏独対立の長期化
これらの変化は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのヨーロッパ外交、とりわけ三国同盟・三国協商の形成や、第一次世界大戦への道筋にも影響を与えた。こうしてスダンの戦いは、一国の政体崩壊にとどまらず、国境線と勢力図を塗り替えた画期となり、近代ヨーロッパ史全体の転換点として位置づけられている。