王義之|書聖と仰がれる中国東晋の能書家

王義之

王義之(おうぎし、303年 – 361年)は、中国の東晋時代に活躍した官僚であり、書家である。字は逸少。右軍将軍の職に就いたことから「王右軍」とも称される。中国史上、最も優れた書家として「書聖」と仰がれ、その筆致は後世の東アジア文化圏における書道の規範となった。彼はそれまでの素朴な書体を洗練させ、技巧的かつ芸術性の高い楷書・行書・草書を確立したことで知られる。特にその流麗な行書は、歴代の皇帝や文人たちから至宝として珍重され続けてきた。

生涯と出自

王義之は、琅邪郡臨沂(現在の山東省臨沂市)の門閥貴族である琅邪王氏の家系に生まれた。若くしてその才能を認められ、秘書郎を振り出しに地方官や中央の要職を歴任した。永和7年(351年)には右軍将軍・会稽内史に任ぜられ、会稽(現在の浙江省紹興市)に赴任した。この地で彼は山水を愛で、文人たちと交遊を深める生活を送った。しかし、官界の派閥争いや自身の性格から、永和11年(355年)に父母の墓前で辞職を誓い、隠遁生活に入った。晩年は金庭(現在の浙江省嵊州市)で過ごし、59歳で没したと伝えられている。

書風の確立

王義之の最大の功績は、実用的な文字を「芸術」の域まで高めた点にある。彼は衛夫人から筆法を学び、さらに漢代や代の古碑を研究して、独自の書風を築き上げた。それまでの書は、隷書の波磔(はたく)が残る硬いものであったが、王義之は筆の運びを円滑にし、骨格の美しさと気品を兼ね備えた新しい書体を完成させた。彼の書く楷書は端正であり、行書は流麗、草書は奔放でありながらも法を失わないものであった。この変革は「今体(きんたい)」と呼ばれ、後世の書家たちが必ず学ぶべき基礎となった。

蘭亭序

王義之の最高傑作として知られるのが『蘭亭序(らんていじょ)』である。永和9年(353年)3月3日、彼は会稽の蘭亭に41人の名士を招き、曲水の宴を催した。このとき詠まれた詩集の序文として書かれたのが本作である。天衣無縫な筆致と、変化に富んだ結体は「天下第一の行書」と称賛される。しかし、王義之が書いた真蹟(直筆)は現存していない。これは、王義之を極端に愛好したの第2代皇帝・太宗が、崩御の際に自身の墓である昭陵に副葬させたためと伝えられている。現在我々が目にすることができるのは、唐代の模写や石碑からの拓本である。

主要な作品群

『蘭亭序』以外にも、多くの優れた作品が断片的な模本や拓本として伝わっている。これらは尺牘(せきとく、手紙)の形式をとることが多く、日常のやり取りの中に高度な芸術性が凝縮されている。

  • 『十七帖』:王義之の草書の代表作。益州刺史の周撫に送った手紙をまとめたもの。
  • 『楽毅論』:小楷の傑作。魏の夏侯玄が著した論を臨書したもの。
  • 『喪乱帖』:故郷の墓が戦乱で荒らされた悲憤を綴った行草。日本に伝来した名品。
  • 『黄庭経』:道教の経典を書いたもので、端正な楷書として名高い。

後世への影響

王義之の書は、南北朝時代を経て唐代に至り、不動の地位を確立した。特に太宗が国を挙げてその遺墨を収集し、手本として推奨したことが決定的であった。日本においても、奈良時代の聖武天皇をはじめ、平安時代の「三筆」や「三跡」といった日本の書道家たちに多大な影響を与えた。現代においても、毛筆による書道のみならず、硬筆のペン習字の文字造形に至るまで、王義之が定義した「文字の美しさ」の基準は生き続けている。まさに東アジアにおける視覚芸術の根幹を成す人物であるといえる。

家族と伝統

王義之の子供たちもまた、優れた書家として名を馳せた。特に末子の王献之は、父と並んで「二王(におう)」と称される。父の書風をさらに発展させ、一筆書きのように文字を繋げる連綿体を多用した献之の書風は、後に「大王(義之)」に対して「小王(献之)」と呼ばれ親しまれた。このように琅邪王氏の一族は、六朝文化における書道の権威として君臨し、その法帖(手本)は歴代の皇帝たちによって宮廷に秘蔵されることとなった。

王義之と王献之の比較

項目 王義之(大王) 王献之(小王)
主な書体 楷・行・草のバランスが良い 行草・連綿体(一筆書き)
評価 内斂(内に秘めた強さ) 外拓(華やかで奔放)
代表作 蘭亭序、十七帖 鴨頭丸帖、中秋帖

逸話:入木三分

王義之の筆力がどれほど強靭であったかを示す逸話として「入木三分(にゅうぼくさんぶん)」がある。あるとき、彼が祝詞を木の板に書き、彫り師がその文字を刻もうとしたところ、墨が板の中に三分(約1センチメートル)も染み込んでいたという。このことから、書道の勢いが鋭いことや、見識が深いことを指す成句となった。また、彼はガチョウの首の動きが筆の運び方に似ているとして、ガチョウを非常に愛好したというエピソードも有名である。