片山東熊|赤坂離宮を手がけた宮廷建築の至筆

片山東熊

片山東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日〈1854年1月18日〉 – 大正6年〈1917年〉10月24日)は、明治時代から大正時代初期にかけて活躍した、日本を代表する近代建築家である。工部大学校(現在の東京大学工学部)の造家学科を第1期生として卒業し、日本における西洋建築学の黎明期を支えた。生涯の大部分を宮内省における官僚建築家として過ごし、皇室や国家に関連する壮麗な建築物の設計を数多く手掛けた。特にフランス・ルネサンス様式やネオ・バロック様式を取り入れた本格的で華麗な宮廷建築を日本に定着させたことで高く評価されている。同郷である長州藩出身の伊藤博文井上馨らとの太い人脈を持ち、明治政府の中枢と結びつきながら、近代国家の威信をかけた数々の巨大プロジェクトを牽引した。

生い立ちと修学時代

片山東熊は、長州藩(現在の山口県萩市)の藩士の家に生まれた。幼少期より激動の幕末期を過ごし、奇兵隊を創設した高杉晋作らが活躍する環境の中で育ち、自身も志願して戊辰戦争に従軍している。明治維新を迎えた後、同郷の先輩であり新政府の重鎮となっていた木戸孝允の勧めや庇護を受け、上京して工部大学校に入学した。ここで、お雇い外国人として来日していたイギリス人建築家のジョサイア・コンドルから本格的な西洋建築学と設計技術を学んだ。この時の同期生には、後に日本銀行本店などを手掛け、民間建築の雄として活躍した辰野金吾や、三菱の建築を牽引した曽禰達などがおり、彼らは共に日本における「造家(建築)」の第一世代として切磋琢磨した。

宮内省での活躍と設計思想

工部大学校を卒業後、片山東熊は工部省での勤務を経て宮内省へと移った。教育や民間で活躍した同期たちとは対照的に、片山は生涯を通じて天皇や皇室のための建築に携わる官僚建築家としての道を歩むことになる。明治天皇の治世において、富国強兵と並んで「文明開化」を西洋列強にアピールする必要があった政府にとって、片山の設計する壮麗な洋風建築は不可欠な外交装置でもあった。片山は宮内省において内匠寮のトップである内匠頭にまで登り詰め、国家の顔となる重要な建築の数々を指揮した。彼の建築は、当時のヨーロッパで主流であった重厚かつ装飾的な古典主義スタイルを忠実に日本に移植することに重きが置かれていた。

代表的な建築作品

彼の手掛けた建築の多くは、その芸術的および歴史的価値の高さから、現在でも国の重要文化財や国宝に指定されている。以下に代表的な作品を挙げる。

  • 帝国京都博物館(現在の京都国立博物館) – 1895年(明治28年)竣工。優美なフランス・ルネサンス様式。
  • 帝国奈良博物館(現在の奈良国立博物館) – 1894年(明治27年)竣工。フレンチ・ルネサンス様式を基調とする。
  • 東京帝室博物館表慶館(現在の東京国立博物館表慶館) – 1909年(明治42年)竣工。緑青のドームを持つネオ・バロック様式。
  • 新宿御苑御休所 – 1896年(明治29年)竣工。当初は皇族の休憩所として建設された木造建築。

東宮御所(迎賓館赤坂離宮)の建設

片山東熊の建築家としてのキャリアの集大成とも言えるのが、皇太子(後の大正天皇)の居所として計画された東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)の建設である。この巨大プロジェクトは1899年(明治32年)に計画が始まり、実に10年以上の歳月と巨額の費用をかけて1909年(明治42年)に完成した。ヴェルサイユ宮殿やルーヴル美術館などを視察・参考にし、外観は壮麗なネオ・バロック様式でまとめ上げられている。内部は様々な西洋様式を混交させながらも、七宝焼きや西陣織といった日本独自の伝統的な美術工芸の意匠が随所に取り入れられており、当時の日本の最高水準の技術が結集された日本初の本格的な西洋風宮殿となった。

晩年と後世への影響

東宮御所の完成は片山にとって大きな誇りであったが、そのあまりにも華美な装飾と莫大な建築費に対しては、政府内から批判的な声も上がった。完成した建物を見た天皇から「贅沢すぎる」との言葉を受けたことで、片山が深く落胆し、それが晩年に病に伏せる一因となったとも伝えられている。しかしながら、彼が日本の近代建築史に与えた多大な影響は決して揺らぐものではない。巨大な官営プロジェクトを、山県有朋をはじめとする政治家や官僚たちとの複雑な折衝をこなしながら推進した手腕は高く評価されている。彼の没後、日本の建築界は徐々に実用的なモダニズム建築へと移行していくが、条約改正期に日本が西洋列強に肩を並べるための「国家の威信」を建築という形で創り上げたその功績は、現代においても色褪せることはない。

略歴まとめ

生涯における主要な出来事と役職の変遷を以下の表にまとめる。

出来事
1854年 長州藩(現在の山口県萩市)にて誕生。
1879年 工部大学校造家学科を第1期生として卒業。
1889年 宮内省内匠寮の匠師に就任。本格的に宮中建築に携わる。
1899年 東宮御所(迎賓館赤坂離宮)の造営に着手。
1904年 宮内省内匠寮の最高責任者である内匠頭に就任。
1909年 東宮御所が完成。
1917年 病のため63歳で死去。

コメント(β版)