梅津・何応欽協定|華北から中国軍を排除した軍事協定

梅津・何応欽協定

梅津・何応欽協定とは、1935年(昭和10年)6月10日に、日本の支那駐屯軍司令官であった梅津美治郎と、中国国民政府の軍事委員会北平分会代理委員長であった何応欽との間で結ばれた軍事的・政治的な合意である。1931年の満州事変以降、日本は華北地方への影響力を強めており、1933年の塘沽停戦協定によって停戦が成立していたものの、依然として緊張状態が続いていた。この梅津・何応欽協定により、中国側は河北省からの国民党軍の撤退や排日活動の禁止を余儀なくされ、日本の華北支配が実質的に強化されることとなった。この合意は、後に続く華北分離工作の重要な一歩となり、最終的には日中戦争(支那事変)へと至る歴史的な転換点の一つとして位置づけられている。

協定締結の背景と契機

1933年の塘沽停戦協定締結後、日本軍は熱河省を占領し、長城以南に非武装地帯を設定させた。しかし、日本の陸軍、特に関東軍や支那駐屯軍は、満州国の安全保障と資源確保を目的として、華北5省(河北、山東、山西、察哈爾、綏遠)を国民政府の影響下から切り離す「華北分離工作」を画策していた。1935年5月、天津において親日派の新聞社長2名が暗殺される事態(天津事件)が発生すると、日本側はこれを排日活動の現れであると断定し、中国側に対して強硬な要求を突きつけた。酒井隆参謀長や高橋坦武官らは、中国側の責任を追及するとともに、華北からの国民党勢力の一掃を求めて軍事的な圧力を加えたのである。これに対し、当時の蒋介石政権は、共産党軍との内戦(長征)の最中であり、日本との全面衝突を避けるために妥協の道を選択せざるを得なかった。

交渉の経過と成立

1935年5月29日から始まった交渉において、日本側は「梅津通告」と呼ばれる一連の要求事項を提示した。これには、河北省政府主席の罷免、国民党部の撤退、抗日団体の解散などが含まれていた。当初、何応欽はこれらの要求に対して口頭での回答に留めようとしたが、支那駐屯軍側は文書による確約を求めて威嚇を続けた。最終的に、6月10日に何応欽が梅津に対して日本側の要求を全面的に承認する旨の公文を送り、これを受理することで梅津・何応欽協定が成立した。特筆すべきは、この協定が正式な外交条約としてではなく、軍事上の現地協定という形式を取ったことである。これにより、日本軍は外交ルートを経ることなく、独自の判断で華北における軍事行動や政治介入を行う法的根拠を手に入れることとなった。

協定の主な内容

梅津・何応欽協定によって中国側が受諾した主な項目は以下の通りである。これらはいずれも河北省全域から国民政府の軍事的・政治的影響力を完全に排除することを目的としていた。

  • 河北省政府主席である于学忠の罷免。
  • 第51軍(東北軍系)および中央軍(第2師、第25師など)の河北省外への撤退。
  • 国民党河北省および天津市の党部の撤去。
  • 藍衣社、復興社、励志社といった抗日秘密結社や特殊政治団体の活動禁止。
  • 中国全土における排外排日行為の厳禁。

歴史的意義と影響

梅津・何応欽協定の締結は、華北における主権を事実上喪失させるものであり、中国の知識層や学生の間で激しい不満を引き起こした。同年、察哈爾省でも同様の土肥原・秦徳純協定が結ばれ、華北の広大な地域が日本軍の勢力圏に組み込まれた。これにより、日本軍は冀東防共自治政府を樹立させるなど、華北分離工作を加速させた。しかし、このような日本の強圧的な姿勢は、かえって中国国内の抗日運動を激化させ、西安事件を経て国民党と共産党が再び協力する「第二次国共合作」へと向かわせる要因となった。最終的に、1937年の盧溝橋事件を契機として全面的な衝突が始まり、日本は長期的な泥沼の戦いへと足を踏み入れることになるのである。

協定に関連する主要人物と組織

分類 名称 役割・詳細
日本側代表 梅津美治郎 支那駐屯軍司令官。後に参謀総長を務める。
中国側代表 何応欽 国民政府軍事委員会北平分会代理委員長。
日本側軍事組織 支那駐屯軍 天津・北京に駐留していた日本軍。通称「天津軍」。
中国側軍事組織 第51軍 于学忠率いる東北軍系部隊。河北省から撤退した。
関連事件 天津事件 親日派新聞社長暗殺事件。協定の直接的な契機となった。

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